正しい知識に基づく議論を構築し、真実を探究するウェブ言論誌

論泉 RONSEN

テレビドラマの表現と思想


『日本沈没』

宮村直佳

『日本沈没』は1974年10月6日から翌年3月30日にかけて放送された作品である。全26回。原作は小松左京の大ベストセラー小説。前年12月に公開された映画版が空前のヒットを記録している。このテレビ版はその勢いを駆って作られたものである。スタッフもキャストも映画版に劣らぬ豪華編制が組まれており、製作者の気合が感じられる。特撮番組と言うと、どうしても「ジャリ向け」というイメージが強いが、この番組は大人が観ても楽しめる内容に仕上がっている。そういう意味でも画期的作品である。多少気恥ずかしい描写もあるにはあるが、今観ても充分面白い。3年前に発売されたDVDセットのお陰で「幻の作品」ではなくなった点も嬉しい。特典満載のお買い得品である。購入が無理なら、近所のレンタル屋さんで探してみよう。

「日本列島が海中に没する」という奇想天外なアイディアがこの物語を支えている。小松左京の発想力の凄さにはいつも驚かされる。彼の創作原点は「もし××が××だったら××はどうなるか?」であるらしい。着想の面白さと綿密な科学考証が融合して、強固な作品世界を構築している。単なる法螺話では終わらせない迫真性を帯びているのである。但し、映像版では原作の持つ科学的側面は可能な限り削り落とされている。この物語を娯楽作品として成立させようと考えた場合、それらの部分はかえって邪魔になるからである。原作ファンにとっては物足りないだろうが、映像好きに言わせてもらうと、その判断は極めて正しいという事になる。

怪獣であったり、宇宙人であったり、異次元生物であったり、特撮番組には人類を脅かす存在が登場する。それら侵略者との闘争がドラマの核になるわけだが『日本沈没』の場合は「地球そのもの」が襲撃してくるのだから恐ろしい。まさしく特撮史上、最強最大の敵。いかにゴジラが強力とは言え、日本列島自体を消滅させる事は出来まい。怪獣王を超える者―惑星レベルの破壊力が今度の相手である。これほど絶望的な戦いはないだろう。この大いなる敵に対して、人間はあまりにも無力だ。いや「戦い」にすらならないのである。人類に許された選択肢はただひとつ。崩れ落ちる大地から「逃げ出す」事しかないのだ。地球の支配者を気取る者の慢心も同時に砕け散る。所詮、人間などは地球の表面にくっついて生きている「田螺」に過ぎないのである。

映画版では「偉い人」の活躍が目立ったが、テレビ版は庶民性の強い作風になっている。主人公の小野寺俊夫(村野武範)も潜水艇操縦という特殊技能を備えてはいるものの、基本的には大衆側に属している。スーパーマンでもなければ、サイボーグでもない。普通の人間である。故に感情移入もし易い。少年のような繊細さに加えて、アウトローっぽい性質も備えている。義侠心に厚く、喧嘩も強い。死語になって久しい「熱血漢」という称号を想起させてくれる男である。一人でも多くの同胞を救おうと、小野寺は日本各地を西に東に飛び回る。庶民出身ながら、活動内容は極めて英雄的である。劇中「何故そこまでやるんだ?」と疑問に思う瞬間もあるが、恐らく、未曾有の大災厄が、彼の中に眠っていた「ヒーロースイッチ」を作動させたのであろう。

そんな小野寺に恋する阿部玲子を絶頂期の由美かおるが演じている。由美と言えば「入浴女優」として有名だが「特撮女優」として輝いていた時代もあったのである。この時期、同じく小松左京原作の『エスパイ』や永久封印の怪作『ノストラダムスの大予言』にも出演しており、紛れもない特撮スターであった。彼女の持つ現実離れした美しさは荒唐無稽な作品と相性抜群であり、空想世界の住民として完全に溶け込んでいる。本人は認めないかも知れないが『日本沈没』は彼女の代表作(或いは最高作)だと僕は信じている。最初は傲慢なブルジョア娘として現れるのだが、回を重ねる毎に「女神性」を発揮するのだった。その変身振りも見ものだ。野性味あふれる小野寺とは好対照を成し、特撮番組史上に残るベストカップルと言えるのではないかと思う。

列島水没の指摘者たる田所博士を演じるのは映画版同様、小林桂樹である。専門は地球物理学。天才肌の科学者であり、言動も行動も全て破天荒。その為、誤解されたり、顰蹙を買ったりする。学会では変人(或いは狂人)扱いされている。だが、実際は酷く真面目で優しい性格の持ち主である。正義感も桁外れに強い。本当の自分を見せるのが照れ臭いのか、殊更がさつに振る舞っているようにも思える。複雑な人物像を小林が巧みに表現している。彼自身、相当気に入っている役だとも聞いている。番組前半は小野寺と衝突する場面が多かったが、次第に豪傑同士の友情が芽生える事になる。この二人は同じ魂を備えた勇者なのだ。師弟関係と言うより「年齢の離れた戦友」と言った趣きである。尚、テレビ版の田所博士には映画版と異なる運命が用意されている。これに不満を覚える人もいそうだが、パラレルワールドのひとつとして、気軽に楽しめば良いだろう。

2009年1月2日

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『風と雲と虹と』

宮村直佳

『風と雲と虹と』は1976年1月4日〜12月26日に放送された。NHK大河ドラマ第14作。全エピソー ドが現存する最古の大河ドラマであるという(但し、個人所有は除く)。御存知の方も多いと思うが、NHKでは、ある時期まで「録画テープの使い回し」が行われていた。当時は放送局用のビデオテープが大変高価であったのが、第一の原因だと言われている。もしかすると「映像を後世に残す」という感覚自体が希薄だったのかも知れない。その為に消去されてしまった名番組も少なくないようである。この作品も長い間「失われた大河」のひとつに数えられていた。しかし、最近になって、全話分のテープがNHKの倉庫内に眠っている事が劇的に判明した。見つけた人は相当興奮した筈だ。ここまでくると、古代遺跡や恐竜の骨の発掘作業を想起させるものがある。ともあれ「古の映像財産の復活」はドラマ好きにとっては大朗報であった。

『風と雲と虹と』の主人公は平将門である。彼には前々から興味があった。それも歴史的とか学問的とか、そういう高尚なものではなく、伝奇的、オカルト的な興味であった。例の「首塚伝説」を源流とする禍々しいイメージ。僕の脳内に存在する「将門」は、常に血刀を提げ、常に敵を求めて活動しているような怪人物であった。魔戦士と呼ぼうか、妖将軍と呼ぼうか。この作品はそんな「将門イメージ」を粉微塵に撃ち砕いてくれた。歪んだ先入観は粉砕された方が良い。ドラマ内の平将門は義侠心篤い好漢であった。困っている者や頼ってきた者を放置出来ない性格。家臣領民に愛され、自らも開墾作業に精を出す王様像に新鮮味を覚えた。将門の「大地と共に生きよう」という人生観は素朴だが説得力がある。配役も的確であった。最盛期の加藤剛が、この人物の持つ力強さと繊細さを巧みに演じていた。勿論、ドラマ用のキャラクターとして、多少の改造手術は加えてあるのだろうが「本物の将門もこういう人だったのではないか」と思わせる実在感を発揮していた。

『風と雲と虹と』が観たかった理由のひとつとして、田原藤太(藤原秀郷)の登場がある。彼は僕が生まれた滋賀県では「百足退治の英雄」として有名である。子供の頃、藤太の活躍を題材にした絵本か何かを読んだ記憶がある。大湖に住まう竜神に依頼され、凶悪な巨蟲と戦った勇者である。伝説によれば、平将門も大百足に匹敵する大妖怪であり、藤太が将門を討ち果たせたのも、半ば竜神のお陰とされている。湖竜を後ろ楯に持つ魔物キラー。そのカッコ良さに魅せられたものである。言うまでもないが、この作品では、将門や藤太が持っている伝奇的要素は一切排除されている。確かに真面目な歴史ドラマには向かない内容だし、原作者の海音寺先生が許されるわけもない。だが、もし、この作品をリメイクするなら、そういった部分も積極的に取り込み、かの『指輪物語』に対抗するかのような、ファンタジー色豊かな冒険活劇に仕上げて欲しいものである。

東夷(あづまえびす)。都在住のやんごとない方々が東国の武人を嘲る時に使う言葉である。喧嘩は強いが、頭は悪い。優雅な宮廷生活を送っている人間から見れば、彼らは蛮人蛮族に過ぎないのだろう。酷い差別用語ではあるが、畏怖感と言うか、恐れの意識を孕んでいるようにも思える。東夷の本拠地たる坂東。この地方が持つ特異性は物語の中で繰り返し描かれている。坂東には戦闘慣れした有力豪族が割拠しており、時の政府も警戒心を緩めない。そして、将門と藤太は勇猛を誇る坂東武者の代表選手である。物語中盤「真の坂東の虎は誰なのか?」という印象的な台詞があるように、二大強豪が繰り広げる死闘がこのドラマのクライマックスとなる。それは「坂東武者ランキング」第1位と第2位が激突する空前の戦いであった。その前に藤太は将門の居館を訪問している。両雄の会見が実現するのが、第50回「藤太と将門」であり、見せ場の多いこの物語の中でも、一際光を放っている。藤太に扮した露口茂の落ち着いた演技が、古豪の風格をよく表現していた。

NHK大河ドラマの楽しみ方は観る人によって違ってくるし、色んな観方があって良いと思う。例えば、戦国時代を扱った作品を「ヤクザ映画の変形」として楽しんでいるようなところが僕にはある。史実に忠実であるかとか、時代考証が正しいかどうかとかには、余り関心はない。勿論、それも大切なのだが、ドラマとしての面白さが減殺されてはつまらない。視聴者がその時代やその時代に生きた人達について興味を覚えたなら、それで成功ではないだろうか。時代や人物を更に掘り下げるのは視聴者自身の課題である。歴史を知る事は日本を知る事に繋がってくる。決して無意味な作業ではない。僕も『風と雲と虹と』を観た後、主要キャラクターの生涯や人物像、歴史的評価等について、図書館へ調べに行ったりした。その内に原作小説も読み始めるだろうし、そこには、新たな発見が待っているだろう。一度動き出した探究心はそう簡単には止まらない。そのキッカケを与えてくれたこの番組に感謝したい。今回、もう一人の主人公である藤原純友(緒形拳好演)について、全く触れられなかったのは残念だが、その話は別の場所、別の機会でやりたいと思う。

2008年5月6日

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『早春スケッチブック』

宮村直佳

『早春スケッチブック』は1983年1月7日〜同年3月25日にフジテレビで放送された作品である。脚本は山田太一。傑作の多い山田ドラマの中でも一際異彩を放つ作品だ。その完成度は極めて高く、テレビドラマ史に名を刻むべき逸品だと思う。抜群の面白さと、奥の深さを誇る作品であるにも関わらず、視聴率は伸び悩み、本放送以降、再放送される機会も少なく、所謂「幻の名作」になっていた。僕もこのドラマの噂は色んな場所で聞いてはいたのだが、中々観るチャンスが得られず、半ば諦めかけていた。それだけに、新しく出来たレンタル屋さんの棚にDVD全巻が揃えられているのを発見した時の喜びは『白い巨塔』以上であった。

『早春』はホームドラマに分類されるのだと思うが、物語の設定や人物の造形が精密に行われており、一筋縄ではいかない面白さを醸す事に成功している。特に後者が秀逸である。登場人物が少ない分、個々の性格が丹念に描き込まれている。ユニークなキャラクターが組み合わさる事により、その個性が絡み合い、強靭なエネルギーに発展して、物語を動かす巨大な原動力となっている。いつの間にか、僕は彼らを現実の人間であるかのように感情移入していた。ドラマにせよ映画にせよ、冷めた眼で眺めている事が多い僕としては異例の事態であった。ある映画監督が「登場人物は作者の思想を伝える為に作り出された人工物に過ぎない」というような意味の発言をしていたが、果たしてそうだろうか。実際の人間以上に「人間的な」キャラクターというのも、もしかしたら有り得るのではないかとこのドラマを観ながら思った。

名優と称えられるには様々な条件が要求されるが、そのひとつに「作品運」というものがある。この作品運の比重がかなり大きいのではないかと僕は考えている。名作と名優は切り離せない関係にあるのだ。どんなに優れた能力を秘めている俳優でも、良い脚本に恵まれなければ、力を発揮しようがないからである。バカなドラマに出ていると、その出演者までもがバカに見えてくるから不思議である。逆に言えば、能力的にやや覚束ない俳優でも、良い脚本、良い演出家を得る事によって、実力以上の成果を挙げる場合だってあるのである。

岩下志麻、樋口可南子、河原崎長一郎、山崎努が『早春』の主要メンバーだが、山田の名脚本を得て、各人が個性やキャリアを生かした好演を毎回披露している。演じ甲斐のある役を与えられた俳優は幸福である。自動的に演技にも気迫と凄味が加わる。血の繋がらない兄妹に扮した鶴見辰吾と二階堂千寿の初々しい演技も見物であり、二階堂の愛くるしさは「妹キャラ」が好きな人は必見である。物語後半、彼女は大活躍を展開する。

岩下、樋口、河原崎が熱演を繰り広げる中で、山崎努がその上をゆく渾身の演技で観る者を圧倒する。黒澤明の力作『天国と地獄』の犯人役で一躍名を馳せたこの名優(或いは怪優)は、その後も、映画やドラマで強烈なキャラクターを嬉々として演じてきた。更に舞台でも印象的な仕事を残しているのだから驚異的である。アクの強さと知性の煌きを兼備する俳優として、かの三國連太郎に匹敵する才能だと思う。最近はややお疲れ気味だが『早春』の山崎は凄かった。不治の病に侵された写真家という難役に全身全霊で取り組んでいる。

沢田竜彦。山崎はこの複雑な男が持つ強さも弱さも凶暴性も茶目っ気も、余す事なく、丸ごと表現している。何かにとり憑かれたかのような表情と演技は迫力充分。物語の進行と共に沢田の病状も徐々に悪化してゆく。まるで、手負いの虎が死に場所を探すかのように彷徨する姿は観ていてしんどかったが、どんなに辛くても続きが観たくなってしまう魔的な磁力が、僕を捉えて離さなかった。山崎の最盛期演技が堪能出来るだけでもこのドラマを観る価値はあると思う。

『早春』に登場する家族はある「爆弾」を抱えている。その爆弾は平穏な暮らしの底に長い間埋没していた。それを掘り起こし、作動させるのが沢田の役目だ。否、彼自身が爆弾そのものと言っても良い。主人公家族は大いに震撼する。しかし、これは避けられない運命であった。いずれ決着をつけずにはいられない宿命であった。父も母も息子も娘も最初は戸惑っていたが、やがて、それぞれのやり方で運命と対決するのである。その姿がとても頼もしく、時に好ましく思えた。忘れていた(忘れようとしていた)過去が一寸したキッカケで表面化し、思わぬ騒動に繋がる事は我々の人生にも起こり得る。その時、僕(或いはあなた)は彼らのように勇気を持って立ち向かう事が出来るだろうか? そういう意味でこのドラマはリアリティに富んでいる。同時に、何気ない日常生活の裏にとんでもないスペクタクルが隠されている可能性を僕達に教えてくれるのである。

2007年10月10日

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『白い巨塔』その3

宮村直佳

名門大学の教授の椅子を獲得し、自身の医療ミスを巡る裁判にも勝利した財前五郎。無敵の快進撃を続けていたこの男を一転、窮地に追い込んだのは身内の反乱であった。戦国覇王・織田信長じゃないが、財前は味方の裏切りに敗れたのである。財前の敗因を考えてみると、最終的には人を人と思わない(扱わない)彼の性格に行き着く。彼にとって、下っ端の医局員などは、将棋やチェスの駒に過ぎなかった。野望達成の道具である。財前は部下の人格を尊重しなかった。しようとも思わなかった。道具や駒は文句を言わないが、人間は誰であれ、感情や誇りを有している。感情や誇りを踏み躙られた時、その者は強烈な反撃に打って出るのである。いや、出るべきである。自分も苦学生であった財前が、何故に非情の君主に成長してしまったのか。謎である。進化の過程で「何かが起きた」筈である。その何かを追求する物語も充分有り得るだろう。今年、若き日の《人食いレクター》を題材にした映画が公開されたが、財前の過去を探る作品を観てみたい気もする。

僕もこれまでの人生の中で「財前型」の人に幾度か遭遇している。尤も、同じなのは性格だけで、実力の方はサッパリ、頭の中身はカラッポという場合が大半だったけど。自分の都合の良いように他人を利用する術に長けている人間である。この手の人は自分がどんなに無礼な行動をしているのか、自覚すらしていないのが常である。まあ、自覚していないからこそあのような行為が出来るのだろう。他人を踏み台にして、本人はスイスイと人生の海を渡っている心算なのだろうが、そうは問屋が卸さねえ。踏み台にされた者はその屈辱を決して忘れないものだ。天才外科医として名を馳せた財前先生でも玉座から引き摺り下ろされたのである。二枚舌、三枚舌の皆さん、突然の座礁や大津波に御注意下さい。

この小連載の最初に、田宮版『白い巨塔』をテレビドラマ史上に残る大傑作と絶叫してしまったが、映像面に関しては少々物足りない事は否めない。だが、脚本の面白さ、人物造形の巧みさ、何より、出演者の厚味でその弱点をカバーしている。日本映画の黄金期を支えた名優怪優が顔を揃えるサマは圧巻である。特別出演や友情出演のレベルではなく、作品世界を構築する要素として機能しているのが素晴らしい。極端に言えば、背景は書き割りでも、役者の迫力さえあれば画面は持つという事である。そして、財前の静かなるライバル・里見脩二に扮した山本學の好演。出世だの勢力争いだの、生臭い世界とは無縁の人物であり、医学に全てを捧げた研究心の塊のような男である。見た目は地味で穏やかだが、滾るような正義感を内包する豪傑である。

里見先生は余りに清廉潔白な人物であり、彼が主役だとやや鼻につくかも知れないが、脇役に据えた事でその危険を回避している。まさに適役だ。俳優の個性を生かした最高の配役と言えよう。山本としても生涯忘れられない仕事になったと思う。ドラマにおける配役の重要性を再認識させられた次第である。先頃、唐沢版の第1話と第2話を観る機会があったのだが「役者力」の差は歴然であった。無論、主演の唐沢以下、他の出演者も頑張ってはいるのだが、存在感の希薄さと説得力の欠如には愕然とさせられた。まるでマンガである。画面の作り方もアニメーションっぽい。僕はマンガもアニメも大好きだが、人間が演じるドラマがそれを倣う事はない。何らかの必然性があるのならまた話は違ってくるが…。

『終章』と銘打たれた最終回にて、財前は敗北を認める。その肉体は病魔に食い荒らされ余命幾許もない。無残である。どんなに偉くなっても「死んじゃえばオシマイ」という当たり前のようで、普段は失念している事を思い出させてくれる。この最終回でも田宮二郎の情熱は健在であった。自ら遺書をしたため、死体になった財前をも演じる異様な執念に共演者やスタッフも畏怖したそうである。或いは、財前と一体化した田宮はこの場を借りて、生前葬を行っていたとも考えられる。最良の役を徹底的に演じ切り、その収録後に、人生というもうひとつの芝居の幕も強引に下ろしてしまった。田宮の中では虚構と現実の区別がつかなくなっていたのだろうか。それとも、これは周到な計算に基づく行動だったのか。本放送の際『終章』は驚異的な視聴率を弾き出したのである。日本のハワード・ヒューズを目指した男が命を懸けて放った極めつけの大仕掛けであった。

田宮の選択を全面的に賛同する事は出来ないが、ここまで役に没入し、完全燃焼し尽くした俳優がこれまで何人いるのかなとも思う。手負いの狼、最後の咆哮。寝そべったり、メシを食いながら観る類の作品ではない事は確かである。全31話。手抜きも中弛みもない。鑑賞の際は気合を入れ、背筋を正して観てもらいたい。

2007年5月13日

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『白い巨塔』その2

宮村直佳

映画でも小説でも、物語の主役というものは大体「いい奴」が務める事になっている。中には「いい奴」と人に 思われるのが照れ臭いのか、精一杯ワルぶってみせる者もいるが、基本的には「いい奴」である事は揺るがない。態度や言動はともかく、その行動が「いい奴」である事を如実に示しているからだ。現実世界には「悪い奴」がデカい顔でのさばっているのだから、せめて、虚構世界ぐらいは「いい奴が悪い奴をやっつけるところ」を見たいというのが人情というものである。僕も表面上は単純だの底が浅いだのと揶揄しつつも、実際は勧善懲悪の物語が大好きな者の一人である。では、我らがビッグスター田宮二郎が演じた財前五郎というキャラクターはいい奴であろうか、それとも悪い奴であろうか。

腕は立つが傲慢で鼻持ちならない男というのが、職場内における財前五郎の評判である。外科医の仕事はまさに 病魔とのチャンバラだ。優秀な頭脳と精密な技術。更に芸術家的な鋭い感覚も要求される。もしメスが狂えば、患者を死の危険に晒す事になる。故に強靭な精神力も備えていなくてはならないし、長時間の手術をやりこなすには肉体的にも頑丈でなくてはならない。超人である。誰もが出来る仕事ではない。そんな選ばれし者の中でも、ランキングというものは確実に存在する。財前はその上位に位置しているエリート中のエリートである。だから、彼が自信家になったとしても全然不思議ではない。むしろ、当然という気さえする。彼の自信には類稀な能力という立派な成立理由があるのだから。実力もないのに、やたらに威張り散らす――しかも攻撃対象は自分より立場が低い者に限られる――ニセモノの自信家さん達に比べれば、財前先生は颯爽としているし、カッコいい人に思える。ただ「能ある鷹は爪隠す的な人物」を演じた方が敵の出現率が減じるのも確かである。それが出来ないのが財前五郎のお茶目な所であり、魅力でもあるのだが。

財前のオレ流のやり方が気に食わない人物の代表格が、彼の師匠たる東教授(中村伸郎)というのも皮肉であり、面白い現象である。黒澤映画の根幹たる美しき師弟愛はここには存在しない。両雄は不倶戴天の宿敵として激しくぶつかり合う事になる。東教授が財前を「私の後継者に相応しくない」と思った瞬間から、院内外を巻き込む壮絶な死闘が開始されるのである。決戦(血戦?)の場は次期教授選となる。財前派と東派。両陣営は票の獲得を巡って、血みどろの攻防戦を繰り広げる。虚々実々の駆け引きが極めてスリリングだ。ヤクザ映画の勢力(沽券)争いにも似たえげつなさに度肝を抜かれる。いや、ヤクザであろうと、医師であろうと、人間という生き物は本質的に「国取り合戦」をするように出来ているらしい。世間ではエリートとされている連中がダークサイド顔負けの術策を駆使している辺りに強烈なリアリティを感じた。多分これは、世界中の組織という組織で行われているに違いない。各登場人物を自分の周囲に当て嵌める事も充分可能だろう。

規模はセコいが、僕も同じような騒ぎに遭遇した経験がある。そして、僕のような下級兵(足軽)は自分の意思に関係なく、その戦いに駆り出されるのだ。訳もわからぬ内に狂乱の舞台へと押し上げられ、道化を演じる破目になるのである。傍から見ればさぞ滑稽だろうが、一旦、舞台に上がれば役者として機能する他はない。これで本人は必死なのである。ピエロである事に疲れたら、舞台を降りるか、病気になるか、或いは組織内アウトローに徹するしかない。僕は三番目になろうと頑張ってはみたが、途中で挫折し、結局組織から出ていかざるを得なくなった。一匹狼を気取る者はとかく上層部から嫌われる傾向にあるが、景気が悪くなればなるほど風当たりも強くなるので注意が必要である。組織という名の生命体は異物を発見し、それを摘出する能力に長けている。孤軍で抵抗しても無駄と言えば無駄である。どうせ放逐されるなら、自分から飛び出した方が気持ちがいいかも知れない。逆に組織を乗っ取るという選択肢もあるのだろうが、僕にはどうしていいのやら、方法がわからないので、これ以上は書きたくても書けない。誰か詳しい人に聞いて下さい。

教授の座を獲得する為にはあらゆる努力と策謀を惜しまない財前。この野心の塊のような男にもひとつだけ人間的な部分がある。それは彼が大変な母親思いであるという点である。どんなに忙しくても、母親宛の手紙をしたためて、自ら郵便局に赴くのだ。勿論、相当額の現金も同封してある。剣を使わない殺し合いに明け暮れている男が見せる孝行息子の顔。この設定が財前というキャラクターに一層の厚味を加えている事に注目したい。マザコンと言ってしまえばそれまでだが、善性と悪性が複雑に混じり合っているのが人間であり、財前五郎の有する存在感や現実味はこのような木目細かな描写の積み重ねによって構築されているのである。田宮二郎も説得力に富んだ演技でこの人物を表現している。そして、財前の持つ多重性がこのドラマの一筋縄ではゆかない面白さに繋がっていると言えよう。やはり彼はこの物語を背負うに足る男…主人公だったのだ。何を今更だが、そんな絶妙キャラを、いい奴だの悪い奴だのと、狭い枠内に閉じ込めようとした僕が愚かだった。

2007年4月8日

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『白い巨塔』その1

宮村直佳

近所のレンタル屋さんの棚にテレビ版『白い巨塔』のDVDを発見した時の喜びが未だに忘れられない。以前から観たかった作品であり、全巻揃っている事を確認して、また狂喜した。今更言うまでもないが、相当ひねくれた映像ファンである僕が求めていたものは、唐沢寿明が財前五郎を演じたリメイク版(2003〜04年放送)などではなく、真正財前・田宮二郎ヴァージョン(全31話)である。

白い巨塔DVD-1

この作品は1978年〜79年に放送され、その完成度はテレビドラマの枠を超えており、ほとんど映画級に達している。いや、映画の領域さえ凌駕しているのではないかとさえ思う。何故なら、大河ロマンを表現する方法としては、映画よりもテレビドラマの方が向いているからである。時間的な制約に縛られている映画よりも、登場人物一人一人の個性をじっくりと掘り下げる事が可能なテレビドラマに利があるからである。これはテレビドラマの特性を生かし切った極めて優れた「映像作品」だと思う。日本の映像史に残る大傑作だと言い切ってしまおう。

テレビ版主演の田宮二郎は山本薩夫が監督した映画版(1966年公開)でも財前を演じており、まさに「本家財前」とでも呼ぶべき存在である。尚、唐沢、田宮の他に、佐藤慶が財前を演っているヴァージョンがあるのだが、残念ながら、僕は未見である。佐藤版もいつか捉まえてみたいと考えているが、現時点では僕に佐藤版を語る資格はない。今回は田宮版に絞って、話を進めてゆこう。

テレビ版『白い巨塔』は田宮二郎、入魂の企画であった。役の年齢に本人の年齢が近づいてきた事もあり、田宮の中に「もう一度、財前を演じてみたい」という野心が芽生えたのだ。又、映画版は財前側の完全勝利で幕を下ろしている(これがまた山本映画らしくてステキなのだけど)が、田宮は「その後の財前を演じたい」という意欲を燃やしており、彼の有する強靭なエネルギーが炸裂したのがテレビ版『白い巨塔』なのである。実際、回を重ねる毎に田宮の演技は凄味を増してゆく。財前の持つ狂気が田宮にも宿ったかのような熱演であった。或いは、田宮の狂気が財前に乗り移ったと言った方が正しいのかも知れない。

観る側からすれば、田宮二郎は魅力的な俳優ではあるが、自己主張が激しいばかりに周囲の反感を招くケースも多かったように聞いている。日本の映画産業がまだ華やかだった頃、田宮は大映に入社し、俳優としてのキャリアをスタートさせている。以降、独特の風貌とクールな演技を武器にして、人気俳優の地位を獲得するが、ある映画の宣伝ポスターに記載された俳優の順列を巡って会社と大喧嘩。当時は「五社協定」なる強硬ルールが通用した時代であり、田宮は哀れ、映画界から追放されてしまったのである。その後、ドサ回りやテレビの司会業等で食い繋ぐ破目になる。しかし、田宮の強気な性格は健在であった。干されていた自分を救ってくれた某局から、ギャラの高い他局へヌケヌケと寝返り、その事が、またぞろ批判の対象になったりした。

野心旺盛な自信家。芸能と医療、ジャンルは異なるが、田宮二郎は財前五郎に驚くほど似ているのである。田宮自身、財前というキャラクターの中に「己を見ていた」のではないか。それだけ、愛着も深かっただろうし、感情移入もし易かっただろう。で、なければ、あのような凄まじい演技を毎回繰り広げるのは不可能である。とにかくあの目つきは尋常ではなかった。田宮は財前を演じるべく誕生した俳優ではないかとさえ思えてくるのである。田宮の低迷期は大映倒産の年まで続いた。皮肉にも、映画産業の斜陽が、映画俳優・田宮二郎を蘇らせたのだ。例の五社協定も自動的に崩壊し、田宮も映画界に復帰。夢の実現に向かって、精力的な活動を展開する。田宮の夢とは「国際派スターになる」事であった。監督こそしてはいないものの、自分で企画を立案し、自分で資金を調達し、自分で主役を演じる。そのヴァイタリティは当今主流の植物性俳優にはないものである。だが、田宮の遠大な計画は成功したとは言い難い。これも、帝王の座に手が届きそうになりながら、病魔に倒れ、無念の死を迎える財前の姿を髣髴とさせる。

テレビ版『白い巨塔』撮影終了の直後、田宮はまるで財前の後を追うかのように謎の猟銃自殺を遂げるのだった。田宮は役者の仕事の他にも様々な事業(その内容はやや山師的な感じがしないでもない)に手を染めており、莫大な借金を抱えていたようである。酷い躁鬱病にも悩まされていたそうだし、満足に眠れない夜も多かったのではないか。心労疲労が極限に達した時、惨劇は起きた。人間として生きてゆく為にはプライドも大事だが、余りに高過ぎるプライドはかえって自らを滅ぼしてしまうものらしい。因みに田宮の生前の口癖は「俺は日本のハワード・ヒューズになる」だったという。

さて『白い巨塔』の話をする心算が、いつの間にか、田宮二郎の話になってしまった。次回は話を本筋に戻して、このドラマが持つ無類の面白さについて僕なりに迫ってみたいと思う。

2007年3月24日

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阿久津真矢論〜『教室の女王』の提起するもの

高坂 相

弊誌の論泉コラムで、尾崎さんが「『女王の教室』の一つの見方」と題して、テレビドラマ『女王の教室』のことを書いてゐた。私もこのドラマは観てゐた。来月3月17日(金)、18日(土)に二夜連続で『女王の教室』スペシャルが放映されるといふタイミングでもあるので、この機会にこのユニークなドラマについて書いてみたい。あらかじめお断りしておくが、おほむね観てはゐるが、ところどころ欠落してゐる部分もあり、また記憶に頼つて書いてゐるので、解釈に的外れなところがあるかもしれない。ご意見やご批判を頂ければ幸ひである。

女王の教室DVD-VOX

『女王の教室』は平成17年7月〜9月に日本テレビ系で放映されたテレビドラマである。学園ドラマ史上最悪の教師像を造型し、物議をかもした作品だ。賛否交々の評判を呼び、最終回の視聴率は25%を超えた。主演は天海祐希、脚本は遊川和彦、監督は大塚恭司、岩本仁志、渡辺智明の三人が担当してゐる。原作はなく、テレビオリジナル作品である。昨年末にDVD化されてゐる。

とある公立小学校に、阿久津真矢(天海祐希)といふ女教師が赴任してくる。6年3組の担任になつた真矢は、恐怖政治を敷きはじめる。子供たちの反抗や我儘を一切許さず、上位2名には特権を与へ、下位2名には雑用係を担当させるなど、テストの成績で児童を露骨に差別する。その他、あらゆる手を使つて教室の管理と支配を進めていく。その上、普通の男には負けない武術を体得してゐる。児童の親には良い教師と思はせて心理的にコントロールしてゐるので、親たちはすつかり真矢を信用してゐる。神田和美(志田未来)をはじめとする6年3組24名の児童たちは、阿久津真矢といふ人生ではじめて出会ふ恐るべき試練に直面し、混乱する。しかし、悪魔のやうな女教師と真剣勝負をするなかで、徐々に人生に立ち向かふ力をつけていくのだつた…。

このドラマの魅力は、真矢を安易な説明に回収されない人物として造型したことによるところが大きい。不可解とも言へる真矢の人物像によつて、最後まで緊張感が持続し、視聴者は安心することを許されぬまま、教室に繰り広げられる悪夢のやうな劇を観せられる。特に前半の不条理さは際立つてゐた。ラストの方は一応真矢の行動を解釈可能なやうに描いてゐて、やや残念な感じがしたのも事実だが、そこは大衆藝術の方法論に則つたものであらう。

真矢はかつて問題を起こし、再教育センターに送られて現場に復帰したといふ経歴を持つ。再教育センターに送られてゐたのは、頭が良くて他人を人とも思はずいぢめてゐた児童から「なぜ人を殺してはいけないのか」と問はれ、他人の痛みを身体で教へるためにその児童に暴行したからだといふ。復帰してからも、真矢は一切妥協せず、馴れ合はず、児童をひどい目に合はせてゐるといふ評判にも動じず、ひたすらストイックに自らが信じる「教育」を行なふ。

真矢は、子供のエゴや縄張り意識を利用して分断工作を行なひ、教室の人間関係にある表面的な見せかけを剥いでいく。そして子供たちに人間不信と孤立の恐ろしさを体験させ、人を信じられるといふことの貴重さを教へる。現実とはどういふものであるかを教へることで、子供たちが生き抜く方策を自分で考へることを教へるとともに、道徳も叩き込むのである。

周囲の教師や教育委員会は真矢を理解できず、排除しようとする。現に排除されることになるのだが、驚くべきことに、教へ子たちはいつの間にか真矢を慕ひすらしてをり、規律と意欲と思ひやりを備へた自立した人間に変貌してゐるのである。それは、真矢から「本当のこと」を、知識としてだけではなく、体験的に教へてもらつたからである。阿久津真矢体験によつて、真剣に生きることを知つたといふこともあるだらう。子供たちはもつと色々なことを知りたいと思ひ、十二歳といふ年齢の自分が何をなすべきなのかを悟つて、規律と意欲を持つた人間に成長するのである。

もちろん、これはフィクションである。はつきり言つて、無茶苦茶な場面が多い。ただ、たしかに言へるのは、真矢が身体を張つて子供に自立を教へ、教室に秩序を作つたことだ。「なぜ人を殺してはいけないのか」と問はれ、他人の痛みを身体で教へるためにその児童に暴行したといふエピソードを考へてみよう。当然ながら肯定できる行為ではないが、実際のところ、それしか方法はないとも言へる。そんな問ひには答へられないからである。他者の存在に気づかせるには、身を以て痛さを味はつてもらふしかない。それを実行に移してしまふところが、真矢が狂たる所以である。

このドラマは、真矢を全能に描いてゐるわけではない。ただ、命をかけて教育に取り組んでゐる人間として描いてゐる。たとへば真矢は武術を体得してゐるが、大衆活劇のヒーローのやうに無敵であるわけではない。身体を張つて教育を行なふのに必要なものとして、自分ができる範囲において鍛へてゐるだけのことである。プロとして必要なことを、可能な限りやつてゐるに過ぎない。

このドラマが表現してゐる教育論は、戸塚宏やプロ教師の会などのシビアな教育論の系譜上に位置付けられるのだらうが、体制側の体罰礼賛やスパルタ教育論に短絡してはならない。阿久津真矢は秩序の裏側から人の世界を見てゐるアウトサイダーであり、結果として成果を上げてゐるとしてもそれは阿久津真矢の個人の資質と能力に依存してゐるものであつて、その思想と行動は共同体の論理にも教育システムの方法論にも転化し得ないものである。真矢がそのまま教師や大人のモデルになるわけではない。真矢はリアリティのある人物ではあるとは言へず、むしろ問題を露にするための表現上の媒体であるからだ。

このドラマの思想は、共同体が崩壊してゐる現実の認識の上に、個人として自立していくしかないといふものであると思はれる。尾崎さんは、そこに新自由主義的な適者生存の競争原理を肯定する(言ひ換へれば社会を厳しいジャングルと見做して、その社会像に子供を適応させていく)政治イデオロギーに帰結していく危ふさを指摘してゐた。たしかにそれは言へるかもしれない。いづれにせよ、共同体が崩壊し、さりとて真矢のやうには強くなれないといふのが多くの日本人の現状であり、教育関係者や親もそれは同じである。そのやうな現実のなかで、教育についても考へなければならないことは間違ひない。

天海祐希が、不気味で、凛としてゐて、圧倒的な存在感を誇つてゐる。彼女しかあり得なかつたキャスティングだつた。子役の志田未来も、共感性とコミュニケーション能力の高い不羈の精神を持つた小学生を生き生きと演じてゐて、見事だつた。エンディングのダンスシーンがまた素晴らしかつた。あのエンディングのおかげで、天海祐希が悪い人ではなく、これはドラマなんだと毎回ホッとしたものであつた。

来月放映される『女王の教室』スペシャルの第一夜は「エピソード1〜堕天使〜」、第二夜は「エピソード2〜悪魔降臨〜」といふタイトルで(デビルマンかい!)、阿久津真矢の過去が明らかになるといふ。本編を観てゐない方は、スペシャルの予習としてDVDを借りてご覧になつておかれてもいいと思ふ。観て損をすることはない作品である。

『女王の教室』公式サイト

※本編とスペシャルを観て、尾崎・高坂とリレーしてきた『女王の教室』論を完結してくれる論者を俟つ!

平成18年2月22日

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