正しい知識に基づく議論を構築し、真実を探究するウェブ言論誌

論泉 RONSEN

市民社会の作法


子供を歡迎する社會の再構築

高坂 相

はじめに

周知のやうに、日本は現在、急激な少子化が進んでゐる。平成17年(2005)の合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の數の推定値)は1・25人であつたが、當面、少子化傾向に大きな改善が見られるとは考へ難い。長期的に人口を維持できる子供の數、人口置換水準は2.07〜2.08人なので、これから日本の總人口が減少して行き、高齡化が加速して行くことは避けられない。日本は人口減少社會へと急速に傾斜して行く。

少子化には樣々な弊害があるが、その中の一つに勞働人口の減少がある。勞働人口の減少は、さしあたつては熟年層と女性、及び外國人によつて補ふことになるが、それも一時しのぎであり、將來における勞働力の縮小はすでに決定事項である。また言ふまでもなく、勞働人口の減少を女性によつて補ふことは、少子化をさらに推し進める要因になり得る。勞働力の縮小は當然消費の縮小でもあり、日本經濟は衰退して行かざるを得ない。

無論、國家の經濟力や國民の生活水準、ましてや國民の品性や幸福の尺度は人口のみで決まるものではないし、少子化問題を經濟問題ばかりに還元することには問題があると思ふが、日本のやうな極端な少子高齡化は世代別の人口バランスを著しく失はせるものであり、國家にとつて破滅的である。日本の少子高齡化は、社會保障制度の維持のみならず、共同體そのものの維持が不可能になるところまで行きかねない状況にある。

このやうに少子化による未來像がはつきり見えてゐるのであるから、あとは民主主義國家としてどのやうな對策を取つて行くかといふことになるが、對策を云々する前にまづ少子化の背景について考へておきたい。

少子化の原因

日本における少子化には複合的な要因があるだらうが、主要なものとしては、經濟・社會構造の變化とそれに伴ふ意識の變化、そして經濟格差問題が擧げられる。

1.經濟・社會構造の變化とそれに伴ふ意識の變化

少子化は先進國に一般的に見られる現象であるが、これは資本主義システムが地域社會や家庭を食ひ盡くし、人間を勞働者・消費者として個人化するシステムだからであらう。かつて家庭は地域社會の中にあつた。そして、地域社會や家庭は市場經濟の外部にあつた。地域社會は結婚した女性の活動場所であつたが、市場經濟の滲透による地域社會の崩壞によつて、結婚して家庭にとどまる女性の活動場所は極端に少なくなつた。市場が地域社會を食ひ盡くして行く中で、居場所を失つた女性が市場に活動場所を移して行つたのは必然である。

平成14年から厚生勞働省が行なつてゐる21世紀出生兒縱斷調査では、女性が子供を負擔に思ふ理由として、「自分の自由な時間がもてない」「子育てによる身体の疲れが大きい」「子育てで出費がかさむ」などが擧げられてゐる。第1回調査から第5回調査まで「自分の自由な時間がもてない」が最も多い。子供が女性の時間を奪ふ厄介者・邪魔者と見做されてゐることがわかるが、これは女性の意識が資本主義システムに支配されつつあることを示してゐる。日本では子供を自分の自由な時間の邪魔になる存在と感じる女性が増えてをり、それに伴ひ、子供の虐待が増加し、極端な場合には子供を殺してしまふ母親も現れ始めてゐる。

ヨーロッパには市場とは別にキリスト教があり、社會を主體的に維持しようといふアソシエーションの考へ方がある。市場原理主義と言はれるアメリカにもそれはあるし、各エスニックのコミュニティもある。しかし、日本には市場に對抗できる軸はほとんどない。經濟・社會構造の變化とそれに伴ふ意識の變化、地域社會の衰退といふ現状を放置したまま、國策的な少子化對策のために「女性はもつと子供を産むべき」、あるいは「女性は家庭に戻るべき」などと主張することは、女性を子供を産む道具と見做してゐると思はれても仕方がないだらう。

2.經濟格差問題

次に經濟格差の問題であるが、内閣府の國民生活白書や總務省の調査では、配偶者・子供がゐる割合は所得の高い層に多く、それに對して低所得層は未婚率が高く、結婚しても子供の數が少ないといふデータが出てをり、所得格差が少子化の原因の一つであることがはつきりしてゐる。しかし、これもまた單純に經濟格差の問題ではなく、市場經濟の滲透による地域社會の崩壞といふ問題が大きい。と言ふのは、昔は貧しくても多くの家庭は澤山の子供を持つてゐた。貧乏人の子澤山といふ言葉があつたぐらゐであり、貧困イコール少子化とは言へないからである。これはどういふことかと言ふと、かつては地域社會が共同體として子育てをサポートしてゐたのである。しかし、地域社會が崩壞した現在では、貧乏人は結婚することも子供を持つことも難しくなつてゐる。社會問題となつてゐる非正規雇用やフリーターの問題は少子化の問題でもあるのだ。

少子化は男の問題でもある

上述のやうに、女性の意識が資本主義システムに支配されつつあるといふことを直視する必要があるが、子供を産みたいと願ふ女性にとつても、地域社會が崩壞し、母子が孤立して暮らさなければならないやうな環境はしんどいのである。實は資本主義システムに支配され、個人化してゐるといふ状態は、男も同じである。その意味では、男は市場經濟に支配された世界に新たに「社會進出」してきた女たちの先輩と言へる。

少子化をはじめとする家庭の問題を改善するためには、男も家庭のためにもつと時間を取ることが必要なのであるが、男にとつて家庭は面倒臭いものだし、仕事と遊びの方が樂しい。子供のことを女に任せられるならば何人か産んでもらひたいと思つてゐても、いざ自分が家庭や子供に時間を割かなければならないといふことになれば、子供よりも自分の時間を優先させたい。男も子供といふ「負擔」を背負ひたくないのである。ここには、仕事を優先して家庭やコミュニティを顧みない日本の男性の價値觀とライフスタイルがある。女性が子供を負擔に思ふ理由である「自分の自由な時間がもてない」「子育てによる身体の疲れが大きい」「子育てで出費がかさむ」などは、實は男にもそのまま該當するものなのである。

價値觀とライフスタイルを變へられない男たちは、結局、自分と同じやうな生き方を女もすることを認めることになる。最近はむしろ妻も仕事をし、お互ひに負擔になる子供を持たずに、夫婦が對等なパートナーとして生きて行くスタイルが、自然でもあるし、氣樂でもあるといふ感覺を持つ男が増えてきてゐる。フェミニズムの本や映畫やドラマでは今だに妻が仕事をすることを嫌がる男性像が描かれるが、現實は變つてきてゐる。實際、專業主婦の妻に何人も子供を産んでもらひ、家族に豐かな生活を送らせられるだけの甲斐性のある男はそんなに多くはない。

このやうに考へてくると、少子化は女の問題だけではなく、男の問題でもあることがわかる。しかし、男が自分の時間を優先させずに家庭にもつと時間を取つたとしても、地域社會が衰退してしまつてゐる現状では、子供を持つことには多くの困難が伴ふし、また市場が地域社會や家庭を覆つてゐる現在のやうな世界は、子供が社會的な能力を身につけられない等の弊害があり、子供が育つて行くのに適した環境とは言へない。本來、市場經濟の原理とは異なる原理で成り立つてゐる家庭や地域社會は子供を負擔などとは思はないものであるが、子供が負擔と感じられてゐるのは、まさに共同體が崩壞してゐることを示してゐる。親や大人たちの世話を必要とする子供は、勞働者・消費者として自立した存在ではないから經濟效率が惡いといふことになるのである。しかし、子供が親や大人たちの世話を必要としてゐるなどといふことは當たり前のことであり、それを負擔と思ふのは、生物として、また社會的存在として、一種の異常状態に入つてゐるといふことではないか。

結局、少子化を改善するためには、仕事中心、自分中心の價値觀を作り上げてゐる經濟構造や社會構造の大きな轉換が必要になるのである。フェミニズムも含めて、市場の中で少子化を改善しようといふ考へ方があるが、企業は經濟效率を基準にしてをり、市場の中で少子化を改善することは恐らく難しいと思はれる。かつての日本企業はある程度共同體の役割を擔つてゐたが、經濟のグローバル化の中でこの先もそれを期待することは不可能だらう。このやうに、企業は共同體になり代はることはできないから、それはあくまで市民自治を含む政治の役割である(もしこれからの企業が少子化や高齡化などの社會問題をまで抱へ込むやうになつたとすれば、それは經濟・社會構造が轉換したと言ふに等しい)。

子供を歡迎する社會の構築

子供を産むか産まないか、何人産むかなどは、自由社會の原則として個人の自由に屬する事柄である。しかし、人間は社會的存在であり、共同體を構成してゐるのだから、社會の秩序や共同體の維持についても責任がある。共同體が維持できないやうな少子化に對して、政治が何らかの對策を取るのは當然のことである。無論、政策は民主的に決定されることが必要であるが、子供を産むか産まないか、何人産むかなど個人の自由の領域に、有權者の合意形成と意思決定としての政治が何らかの形で介入することは許されるだらう。勿論、共同體の維持を問題にする前に、なぜ日本といふ單位で國を維持して行くのか、といふ根本問題を問ひ直してみるのはいいと思ふ。その上で、共同體を維持する必要はないといふのが民主的な合意であるならば、それはそれで構はない。

政治が個人の自由の領域に介入することに對して、人間は共同體の齒車ではないといふ批判が豫想される。たしかに保守派政治家・官僚・保守派知識人・財界人などの中には、人間を道具としか見てゐない者も多い。しかし、人間を共同體の齒車と見るやうな否定的な見方ではなく、子供を産むことを納税・國防・教育・環境問題などと竝ぶ人間の義務と責任の問題として捉へれば、共同體の維持のために子供を産むことも、決して強ひられたものではない、主體的な課題になるのではないか。政治が個人の自由の領域に介入することには愼重でなければならないが、個人主義と民主的に共同體を維持することは背反するものではない。現代の日本では、市場が強ひる個人化を個人主義と履き違へた意見が保守派と左翼の雙方に見られるが、それは餘りにも市場原理に偏向した無政府主義である。政治は自由を守ると共に、共同體を守る役割も果たさなければならないのである。子孫を殘すことは人間の義務と責任であるはずだし、それは人間の喜びでもあるはずである。

しかし、上述したやうに、市場が覆ひ盡くさうとしてゐる社會の現状を變へることなしに、政治が國策的意圖からのみ少子化に介入することは、單に女性を産む道具として扱ふ結果になる。實際、現状の問題點を放置したまま國策的意圖からのみ少子化對策を取つたところで、大きな成果は得られないだらう。現に少子化傾向に改善が見られないのは、これまでの政治が少子化の原因の除去に成功しなかつたことを示してゐる。役人や族議員が多少の省益擴大のために有識者を頭數だけ集めて少子化對策の場を設けてみせる程度のことでは話にならないのである。結婚したい人間が結婚できない原因、子供を産みたい人間が子供を産めない原因を除去することが必要なのであるが、少子化の原因は現代社會の價値觀やライフスタイルにあり、少子化を食ひ止めるためには經濟構造や社會構造の大きな轉換が求められるのである。

とは言へ、現實的に、政治が子供を産むこと、また何人産めなどと強制することは難しい。たとへば子供を二人産むことを強制する法律を作つたとしても、憲法違反になる可能性が高い。第一、現状を變へずに、市場經濟的意識を持つた人に子供を産むことを獎勵したり強制したりすることは、親にとっても生まれてくる子供にとつても不幸である。從つて、少子化政策の基本は、結婚して子供を産みたい人に對して行なふことになると思はれる。具體的には、子供を産むことに對する徹底した優遇策を取ることであり、周邊環境の整備を行なふことである。不妊治療に對する支援なども必要である。

しかし、少子化對策は子供を産むことに對する優遇策だけでは足りない。それはとりあへず現状の體制の中でも行なへることであり、早急に取り組むべきであるが、少子化の本當の對策は地域社會の再生にあり、それは經濟構造や社會構造の轉換なしには不可能であるといふことは繰り返し指摘しておきたい。少子化對策は女性個人をターゲットにして子供を産むことを獎勵したり強制したりするものではなく、迂遠に見えても市場經濟の外部としての地域社會を再生させることである。少子化對策の目標は、子供を歡迎する社會を構築することである。そのためには企業中心の社會構造の轉換が必要であるが、まづは家族を再生させるために勞働形態の多樣化を推進し、企業の勞働條件を適切に規制することから着手すべきである。家族重視の税制改革も必要である。

少子化對策が世間的壓力になり、産みたくても産めない女性、または産まない選擇をした家族が、疏外感を覺えたり、差別されるやうなことがあつてはならないが、この世に生まれてくる子供が歡迎され、子供とその親が幸福に生きられる社會を構築することは、これからの日本の課題になると考へる。

平成19年2月25日

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日本人の歴史観

森 利行

 本来、必修科目であるはずの「世界史」が、履修されていなかったという事態は、結果的に全国の高校に広がっていた(注1)。社会科目の選択のシステムにも確かに問題があったし、他の科目の未修もあったのだが、その多くが「世界史」であったことは、日本人にとって「世界史」とは何なのだろうということを考えなければならない事態でもある。

 明治以降、特に日露戦争以降、日本は世界のなかで、主役の一人といってもいいほど、歴史に深く関与してきた。それは戦後においても、アメリカを支援するというかたちで、朝鮮、ベトナム戦争からイラク戦争に至るまでつづいている。しかし、現代の日本人の心のなかに、「我々も世界史に深く関与している」という意識が本当にあるだろうか。

 明治から、昭和初期に至る時代がどうだったのかは知らないが、しかし、戦後、日本が実質的にアメリカの庇護の下にはいってからは、世界史にリアリティーを感じることがなくなり、「世界史」は、自らの主体性とは無関係の、単なる「教養」としてしか認識できなくなってしまったのではないだろうか。

 しかし世界史が「教養」という認識に留まっていることの問題の、根は深い。なぜなら、先進国として世界史に関与し、その多大な影響を他の国々に及ぼしたことに対しての「責任感」が日本人の心のなかから、欠落していることになるからだ。

 この責任は、もちろん同等に西欧先進諸国にも及ぶものだが、日本人の場合は、かつてのドイツのように自己批判するのでもなく、アメリカのように自己正当化するのでもなく、自然に「希薄化」、つまり忘却されてしまっているように感じられる。

 そのような責任感の欠如は、例えば、靖国問題や歴史教科書問題での歴史認識の「すれ違い」の大きな原因となっているのではないか。日本人からすれば、謝罪もし、経済援助もしているのだから、中国や韓国からの要求は、内政干渉として映るだろう。

 しかし彼らからしてみれば、足りないものは謝罪や経済援助を、「心的」に担保する、責任意識なのではないだろうか。つまりそれは日本が、近代を通じて大国であり、世界史に深く関与し、結果的に当時、弱者であった他国に大きな影響を及ぼしてしまったことへの“「主体的」な自覚と責任意識”だ。

 しかし、そのように考える時、最近、公私の場で語られる、「美しい国」という表現には違和感を感じざるを得ない(注2)。その表現のなかには、「美しい国」を目指すという意味よりは、日本は本来「美しい国」なのだという意識が強く感じられる。かつての教育勅語でも、歴代の天皇が営々と築いてきたという国の姿(国体)を、「美」という言葉で表現しているが、その意識の底には、歴史の流れ全体を、結果のみから評価するという意識がはたらいていると思う。つまり現在が幸福であれば、そこに至る歴史の流れは、結果的にはすべて正しかったと判断してしまうということだ。良かった時も悪かった時も、俯瞰(ふかん)視線のように、平板に均されてしまうのだ。例えば、広島、長崎の原爆投下も、戦争を終わらせるためにはしかたがなかったと感じる日本人の感性には、このような心理が働いているのだと思うし、靖国問題では、戦争指導者も、一兵卒も、「お国のために頑張ったのだから」という理由だけで、同様に英霊として祀り上げてしまう感性も、そのような俯瞰視線からのみ可能なことだと思うのだ。もちろん、日本が美しくないと言っているのではない。美と醜を均質に均してしまうのではなく、美しい部分と、そうではない部分とをしっかりと見極めなければならないということだ。私には、「美しい国」という表現のなかに、無意識のうちに様々な史実を、一つの楽観的な俯瞰視線の中に収斂させてしまおうという企てが感じられてならないのだ。

 そう考えた時、注意しなければならないことは、わずか七十年前、二度と繰り返したくない歴史の現実に直面していたことさえも、我々は忘れてしまっている可能性があるということだ。当時はとても、「美しい国」という表現はできなかったはずではないか。しかし、悲惨な状態を招いた理由も何一つ検証されないまま、あるいはアジアとの和解がなされないまま、今、私達は「美しい国」という表現を使うことができてしまう。つまり、歴史の「美」と「醜」を均質に均してしまう感性は、まだ当事者が現存するような短いスパンのなかでも働いてしまうのだ。

 しかし考えてみれば、西暦を持たず、天皇の代替わりのたびにリセットする歴史を繰り返してきた日本人の、これが現実の歴史観なのであって、そのこと自体を議論してもあまり意味のないことのようにも思える。必要なことは、日本人は「歴史認識」に対しては、そのような“特殊な感性”を持っているのかもしれないということを自覚し、そのことを常に意識の片隅に置いておくことなのではないか。例えば、そのような自覚や自省を持っていれば、アジアとの関係はもう少し違ったものになっていたかもしれないし、前述のような、「世界史」を他の試験科目と入れ変えることは、少なくとも躊躇されるはずだ。

 しかし、深刻な問題として捉えなければならないことは、記憶が持続しないということは、それが何であれ、繰り返される可能性があるということだろう。少し前の悲惨な歴史さえも、“美”として感じてしまう感性には、いつもその危険性を認識していなければならない。今、日本は、憲法9条を変更しようとしている。しかし、自らの感性の「欠点」を自ら自覚し、憲法によって自己規制することこそが、先進国としての責任の在り方であり、それが“美しい国”の本来の姿なのではないだろうか。

※注1

2006年10月、日本全国の約1割に当たる高校で、高校卒業に必要な世界史などの必修科目の履修がされていないことが発覚した。学習指導要領の必修科目は高校生が学ぶべき最低基準を定めているものであるが、履修漏れ問題を起こしていた高校は大学受験科目を優先させていた。この問題について学校側が偽装や虚偽の報告をしていたことも明るみに出た。今年度の生徒に関しては補習などで卒業を認める救済策が取られたが、このような学習指導要領の無視は1990年代から行なわれており、すでに必修科目を学ぶことなく卒業した人々が大量に存在することになる。

※注2

2006年9月26日に第90代内閣総理大臣に就任した安倍晋三内閣の掲げる政権スローガンが「美しい国、日本」である。安倍首相は2006年7月に『美しい国へ』(文春新書)と題した本も出版している。

2006年12月3日

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國旗國歌問題を考へる

高坂 相

平成十八年九月二十一日、教育現場での國旗掲揚と國歌齊唱をめぐる、いはゆる國旗國歌訴訟について、東京地裁の難波孝一裁判長は「國旗國歌の強制は違法、違憲。教育基本法にも違反する」と判斷し、都教委に一人當たり三萬円の慰謝料の支拂ひを命じる原告勝訴の判決を言ひ渡した。訴訟の經緯は、平成十六年十月二十三日、都教委が都立學校の各校長に「入學式、卒業式等における國旗掲揚及び國歌齊唱の實施について(通達)」といふ文書を通達した。通達の内容は、國旗に向かつて起立すべきこと、國歌を齊唱すべきこと、教師はピアノ伴奏をすべきこと、職務命令に從はない場合は服務上の責任を問はれること等である。訴訟は、この通達に從はずに懲戒處分を受けた教職員ら約四百人が、都教育委員會が國旗國歌を強制するのは憲法が保障する思想・良心の自由を侵害するとして、起立や齊唱の義務がないことの確認を求めてゐたものである。これまで同種の訴訟では、公共の利益を守る立場から司法判斷が出されてゐたが、今囘の地裁判決は現在の司法判斷の流れとは異なるものである。東京都は控訴することを決め、都教委は今後も從來通りの指導を行なふといふ方針を明らかにしてゐる。

私はこの判決は、裁判官が特定のイデオロギー的立場を打ち出したものであると思ふ。報道によると、難波裁判長は國旗國歌を生徒に指導することそのものは有意義であると認めてゐるらしい。その上で、「日の丸・君が代は、第二次大戰までの間、皇國思想や軍國主義の精神的支柱として用ゐられ、現在も國民の間で宗教的・政治的に價値中立的なものと認められるまでには至つてゐない」「國旗掲揚、國歌齊唱に反對する者も少なからずをり、このやうな主義主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の權利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する權利。起立や齊唱の義務を課すことは思想・良心の自由を侵害する」「通達や都教委の一連の指導は、教職員に對し、一方的な一定の理論や觀念を生徒に教へ込むことを強制することに等しく、教育基本法10條1項で定めた『不當な支配』に該當し違法」「教師が國歌のピアノ伴奏をする義務はなく、思想・良心の自由に基づき拒否する自由を有してゐる」「國旗國歌は強制するのではなく、自然のうちに定着させるのが望ましい」等と指摘してゐるといふ。

國旗國歌法によつて國旗國歌と決められてゐる日の丸・君が代に敬意を拂ふべきといふ都教委の指導を、「教職員に對し、一方的な一定の理論や觀念を生徒に教へ込むことを強制することに等し」いとする判決を裁判官たる者が出す日本といふ國の状況に驚くほかはない。私の理解では、難波裁判長は、「一般論として國民が國旗國歌に敬意を表すことは有意義であるが、日の丸・君が代は宗教的・政治的に價値中立的な國旗國歌ではなく、皇國思想や軍國主義の象徴である。私は日の丸・君が代に反對する勢力を支持する」と言つてゐるのである。價値中立などと言つてゐるが、難波裁判長が自らのイデオロギー的立場を全面的に打ち出してゐることは明らかだらう。難波裁判長は日本の國旗國歌である日の丸・君が代に對する價値判斷を下してゐるが、裁判官がそんなことをしてしまふことの愚に氣づいてゐないのである。このやうな價値判斷を下すことは三權分立の理念から逸脱するものだらうし、そこまで踏み込んでイデオロギー的立場を押し出すことは現體制において祿を食んでゐることと自己矛盾を來すのではないか。

何の價値觀もなく感慨も湧かないやうな國旗國歌などといふものがあるはずもなく、政治的に價値中立的な國旗國歌などといふものはないと思はれるが、價値中立的であらうがなからうが、國民が國旗國歌に敬意を表すことは必要であり、從つて日の丸・君が代に敬意を表すことは必要である。勿論、日の丸・君が代に反對する立場は認められる。しかし、それは式典を妨害するといふ公共性に反した無法な行爲ではなく、式典の外部において政治活動として行なふべきである。公的な式典において國旗國歌に敬意を表すことに從はない、または妨害する教師たちの行爲は、當然に公共の福祉に反する。式典の外部において合法的な政治活動を行なつたことに對して處分されたとすれば思想・良心の自由を侵害するものと言へるが、根據に基づいた職務命令に從はない場合に處分されることは思想・良心の自由の侵害には當たらない。もし公的な場において、自分の氣に喰はない事柄には從はない、妨害するといふことが認められるのならば、公共性は成り立ちやうがないのは自明である。たとへば難波裁判長が仕事をしてゐる裁判の場には出席者が從ふべき規則があると思はれるが、公的な場での禮儀や規範に從はなくてもいいと言ふことであれば、裁判の場を亂す者に何らかの處分を強制することは不可能になる。

報道によれば、東京地裁判決について、九月二十二日に石原慎太郎都知事は、「裁判官は亂れに亂れてゐる學校の實態を見てゐない。學校の規律を取り戻すため、ある種の統一行動は必要。その一つが式典に應じての國歌國旗に對する敬意だ」といふ趣旨のことを述べた。また同日、小泉純一郎首相は、「個人の考へも大事だが、社會性、協調性がいかに大事か。法律以前の禮節の問題に對して、教師がはつきりした態度を示さない方が問題だ。學生が社會人になつて國歌も歌へない、國旗に敬意も拂はない。外國に行つたら變に思はれる」といふ趣旨のことを話した。私は日本の保守政治家の公共性と自由との關係についての考へ方(と言ふより感覺)には疑念を持つ者だが、この兩者の意見に關しては常識を述べてゐるに過ぎないと思ふ。

小泉首相が「法律以前の禮節の問題」と言つてゐるやうに、本來は國歌國旗に對して敬意を示すことは法律以前の常識として行なへばいいものであるが、日の丸・君が代は公式的な國旗國歌ではないといふ反對論に決着をつけるべく、平成十一年に広島県の校長が自殺した事件をきつかけに國旗國歌法が制定されたといふ經緯がある。國歌國旗問題に關しては、平成十六年の秋の園遊會で、將棋の米長邦雄が天皇陛下に「日本中の學校に國旗を掲げ、國歌を齊唱させることが私の仕事でございます」と申し上げたところ、陛下が「強制でないことが望ましいですね」とお答へになり、米長は「有難い御言葉を頂きました」と恐縮しきりであつたといふ椿事があつた。陛下の御言葉のやうに、愛國心に關はることは強制でないことが望ましいが、責任ある立場の教師が式典の進行に從はなかつたりそれを妨害したりする無法な行爲に對しては、現實として強制が必要になる。無法は無法として嚴正に對處するのが正しい態度である。

■参考資料

入學式、卒業式等における國旗掲揚及び國歌齊唱の實施について(通達)

平成18年9月24日

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政治の國の宗教論議〜靖國の論點

高坂 相

富田メモ

平成十八年七月二十日、日本經濟新聞が1面記事にスクープとして、昭和六十三年當時の宮内廳長官富田朝彦のメモの一部を公開した。そこには「私が靖國神社に行幸できないのは、A級戰犯を合祀したからである」といふ意味の昭和天皇の御發言とされるものが書き留められてゐた。日經新聞の報道を受け、その他の新聞やテレビも一齊にこれを報道した。その中には、メモを錦の御旗として掲げ、靖國神社を參拜する政治家を批判する材料に使つてゐるものも見かけた。報道と歩調を合はせて、A級戰犯の分祀論を唱へる政治家や知識人などが俄然活氣づいた。

メモの内容に關して、インターネット上では即座に反應があり、メモは捏造ではないか、報道部分の發言者は昭和天皇とは別の人物ではないか等の疑問を呈する聲が上がつた。靖國問題が實質的に次期首相を決める自民黨總裁選の爭點になつてゐる時期だけに、この報道に政治的意圖を指摘する向きもある。日經の背後に、中國との商賣を優先したい經濟界の意向があるといふ指摘もある。

私にはメモの眞僞はわからないが、假に昭和天皇がこのやうな御發言をされてゐたとしても、このやうな形で私的な御發言が政治的に利用されることを望んでをられるとは思へない。これを世に出した人々の見識を疑ふ。しかし、現實に世に出てしまつた以上、富田メモを一つの問題提起として受け止め、公人の靖國參拜問題、A級戰犯合祀問題などを正面から議論する機會であるとも思ふ。勿論、メモは史料として徹底的に檢證されることが必要である。

靖國をめぐる言説には思想的混亂が見受けられる。端的には、政治と宗教の混同である。私の知識ではそれらをすつきりと整理することはできないが、小稿では、靖國問題に關して私自身が常々疑問に思つてゐることを、いくつかの論點に分けて述べたいと思ふ。

政治と宗教

靖國神社をめぐる議論を見てゐると、政治的文脈で語られてゐることがほとんどである。

たとへば、A級戰犯分祀論を唱へてゐる人に問ひたいが、彼らは神道信者なのだらうか。もし神道信者ではないとすれば、どういふ理由で宗教の中身に口を出してゐるのか、それがわからない。神道信者ならざる人にとつて、靖國神社が英靈を祀らうがA級戰犯を合祀しようが、何の意味もないはずである。無神論者ならばなほさらであらう。妄想と片附けておけば濟むことではないのか。

靖國神社は政治と無縁とは言へないが、本來、靖國神社については宗教や文化の問題として論じるべきなのに、靖國神社を議論してゐる政治家や知識人やマスコミは、政治のレベルの話に夢中になつてゐるやうにしか見えない。A級戰犯を分祀するやうに政治的壓力をかける行爲は、明白な宗教彈壓である。

英靈について

靖國神社の御祭神は、國のために命を捧げられた英靈である。靖國神社は人をカミとして祀つてゐるのだが、人そのものが祀られてゐるわけではない。カミとなつた人が祀られてゐるのである。人間の山田太郎が祀られてゐるのではなく、カミの山田太郎命(ミコト)が祀られてゐる。靈璽簿に英靈の名前を書き寫し、靈璽奉安祭を行なふと、御靈が靈璽簿に憑依する。靈璽簿を本殿に遷して合祀祭を行なふと、御神體の御太刀に御靈が移り、カミとなるといふのが、靖國神社の御祭神となる過程である。

英靈をカミと祀るのは佛教的な靈魂の供養と同じではない。日本には神佛摺合の歴史があり、日本人の死者に對する考へ方には、佛教や神道、また明確な形を取らない宗教以前の民俗信仰に共通した觀念があると考へられるが、だからと言つて日本のすべての宗教の死者に對するアプローチの仕方や意味が同一といふわけではない。靖國神社が祀つてゐるのは先祖供養などの意味の靈魂ではなく(遺族にとつてはさういふ意識もあると思ふが)、あくまでカミである。英靈はカミとして、パワーを持つたものとして祀られてゐる。靖國神社の御祭神は、護國のカミ――軍神であり、平和を護るカミである。附け加へれば、日本の傳統的な靈魂觀では異常な死を遂げた者は怨靈と化すが、靖國神社の祭祀にも潛在的に怨靈を鎭魂するといふ含みがあるかもしれない。

國に殉じた人を顯彰する施設はどこの國にもあるが、英靈の御靈を祀るのに靖國神社のやうな形にしたのは、日本人にとつて自然であつた。人をカミに祀るといふ發想自體が神道のものである。靖國神社の代替施設を作るといふ意見があるが、その場合、英靈の處遇は自ら神道とは異なるものになるだらう。

カミを祀る行爲

カミを祀る行爲は、祀る側の主體的な問題である。宗教が何をカミと祀らうと自由であり、カミと祀ることを禁止することはできない。これを理解しないのは宗教の自由を理解しない人である。靖國神社の場合は人をカミと祀つてゐるが、いかなる人をカミに祀るかは靖國神社の基準に從つて選擇してゐる。A級戰犯も合祀基準に該當するとの解釋の下に祀られてゐる。

血縁者が靖國神社に祀られてゐることに對して、反對してゐる遺族がゐる。この問題について考へてみよう。

靖國神社が英靈を祀ることについて、遺族や子孫は(言論の自由は保證されてゐるが)宗教行爲の内容にまで介入することはできない。たとへば菅原道眞公の子孫が天神樣を祀るのを止めろと言へば、全國の天滿宮は廢社になるのかといふことを考へてみればいい。菅公御本人をカミと仰いでゐるのであつて、遺族や子孫は菅公とは別の存在である。同じやうに、靖國神社は國に殉じた御本人をカミと祀つてゐるのであり、遺族や子孫であるからと言つて、英靈信仰を妨げることはできないのである。社會常識としては英靈の遺族と良い關係にあるのが望ましいのに決まつてゐるが、宗教行爲は必ずしも社會常識と一致するものではない。最近は、靖國神社は英靈を祀つていいかどうか遺族に打診してゐるらしいが、誤つた行爲と言はなくてはならない。カミとして祀られることは、遺族や子孫だけではなく、本人も禁止することはできないのである。

一部に誤解があるやうだが、靖國神社に祀ることは英靈の御靈を獨占することではない。當然ながら墓を作ることもできるし、別の神社の御祭神として祀ることもできるし、その他あらゆる宗教的形式によつて祀ることも靖國神社の祭祀と對立しない。

A級戰犯の分祀については、(分祀すべきといふ意味ではなく)純粹に神學的に本當にできないのかどうか檢討の餘地はあると思ふが、靖國神社自身はできないと言つてゐる。最終的には、これは靖國神社の主體的な宗教問題である。

國との關係

靖國神社は歴史的に國家と深い關係がある。戰後はいはゆる國家神道的な施設から一宗教法人になつたが、戰後も英靈の合祀手續きに國が協力してきたといふ經緯がある。靖國神社國家護持といふ構想が今もあるのも、國家との深い關係があるからである。しかし、國家護持(國有化)は靖國神社の官僚組織化であり、神道の魂を拔くことにつながるので、靖國神社の位置附けについては、現在の宗教法人といふ形でいいと思ふ。

公式參拜については樣々な意見があらうが、私は公式參拜をすべきであると思ふ。國に殉じた英靈を祀つてゐるのであるから、小泉的な「參拜は個人の自由」といふやうな論理ではなく(個人の自由であることに違ひないが)、國として公式參拜するのが望ましいと考へる。公式參拜したとしても、目的は戰歿者の慰靈であり、常識的・習俗的行爲の範圍である。靖國神社であることの妥當性といふ點については、歴史的な眞實として英靈は靖國神社にお鎭まりになつてゐるのであるから、靖國神社を國に殉じた英靈を慰靈する中心的な施設として公式參拜することは常識に適つてゐると考へる。當然、佛教形式の追悼施設に對しても、國は同樣の關はり方でいいと思ふ。傳統的な神道や佛教または民俗宗教に對して、過度に嚴格な政教分離原則を當て嵌め、習俗の範圍の國家と宗教の關はり方までをも否定するのは、異常である。ただ、もし日本國では過度に嚴格な政教分離原則を取ると言ふのなら、その原則を一貫して適用すべきであり、靖國神社だけを狙ひ撃ちするやうな眞似はすべきではない。

附言すれば、公人が靖國神社を參拜したからと言つて、公式參拜になるわけではない。議會や内閣で決定し、公金を支出して初めて公式參拜になるのであつて、公人が參拜しただけでは私的參拜である。玉串料を私費で出し、公用車を使はずに參拜してゐる人に對してまで、公人であるから公式參拜であるといふやうな言ひがかりが罷り通つてゐるのは、常軌を逸してゐる。

御親拜について

昭和五十年以來、昭和天皇は靖國神社に御親拜されてゐない。今上天皇も即位されてからは御親拜されてゐない。これについては樣々な推測がされてゐるが、天皇の御親拜が政治問題化することに宮内廳などが愼重になつてゐるといふといふことであらう。皇族は參拜されてゐるし、天皇も春秋二度の例大祭には敕使を遣はされてゐるので、皇室と靖國神社の關係が切れてゐるわけでは全くない。御親拜を再開して頂くにはA級戰犯の分祀が必要といふ議論があるが、もしA級戰犯が祀られてゐることが本當に惡いのであれば、皇族も參拜されてゐないだらうし、敕使も中止されてゐるだらう。私は今のままで天皇に御親拜頂きたいと思ふ。

中國との關係

中國が日本の侵略を受けたのは事實である。ただし、中國は靖國神社はA級戰犯が祀られてゐるので怪しからんと言つてゐるが、中國侵略の責任をA級戰犯に負ひ被せるのは歴史認識として間違つてゐる。A級戰犯については個別に評價がなされるべきだし、天皇とA級戰犯の關係といふことで言つても、A級戰犯の中にも信頼されてゐた者もゐるし、嫌つてをられた者もゐるといふのが實相であらう。ひとからげにA級戰犯として論じること自體が、粗雜であり、政治的である。

中國はA級戰犯を惡者にすることによつて他の日本國民を免罪してくれてゐるのであり、A級戰犯を分祀して中國が納得するのならば分祀すればいいと言ふ意見がある。しかし、政治的配慮によつて合祀したり分祀したりするといふことであれば、靖國神社は宗教であることを止めた方がいい。

附け加へれば、日本の非營利團體「言論NPO」と北京大學などが本年八月二日に發表した世論調査では、中國人囘答者の51%がA級戰犯を分祀したとしても日本の政治家が靖國神社を參拜することを容認しないとの考へを持つてゐることが明らかになつた。中國に對しては、日本人にとつての靖國神社の意味を説明し、根氣よく説得を續けるしかないが、内政干渉に屈してA級戰犯を分祀したとしても、次の政治カードが待つてゐると考へておいたがいいだらう。

韓國との關係

韓國が靖國神社について、特にA級戰犯についてとやかく言ふのは、全くどうかしてゐる。韓國は大東亞戰爭開戰當時日本であつたのであり、アジアとの戰爭も歐米との戰爭もA級戰犯の指導の下に共に戰つたのである。韓國併合に遡つて言ひたいことがあるのはわかるが、A級戰犯は韓國併合の當事者でも責任者でもない。昭和の戰爭に關して日本人が責められるとすれば、韓國人も同罪である。何も知らされてゐないのだから仕方がないとは言へ、韓國人はさういふ最低限の事實認識ぐらゐは持つべきである。日本人は政治的配慮からはつきり言はないのだらうが、誰が考へてもわかることははつきり言ふべきである。

A級戰犯と東京裁判

A級戰犯とは極東國際軍事裁判、いはゆる東京裁判で裁かれた人々である。東京裁判は正當な法理によらずして勝者が敗者を裁いたものであり、裁判の名を借りた復讐の儀式であつた(交戰法規違反行爲を裁くべきは當然である)。A級戰犯は近代法的には冤罪と考へられるが、敗者の日本は、政治的に勝者の裁きを飮まざるを得なかつた。この點は多くの日本人が認識してをり、毎日新聞が本年六月中旬に行なつた世論調査によれば、國民の東京裁判に對する評價は、

「不当な裁判だが、戦争に負けた以上、やむを得なかった」59%

「戦争責任者を裁いた正当な裁判」17%

「戦勝国が一方的に裁いた不当な裁判」10%

といふ結果であつた。約七割の日本人が不當な裁判と認識してゐることがわかる。半數以上の日本人が考へてゐるやうに、たとへ不當な裁判であつても、當時の状況からは政治的に受け入れざるを得なかつたのである。しかし、サンフランシスコ講和條約の時、日本は東京裁判の判決結果(刑の執行)を引き繼いだが、裁判の價値觀・歴史觀まで引き繼いだわけではない。そもそも日本の國内法に基づいて言ひ渡された刑ではないから、國内法的にはA級戰犯は存在しないし、主權囘復後、サンフランシスコ講和條約の手續きに基づいて、一般の戰死者と同じ扱ひとすることを議會で決定してゐるので、少なくとも日本人にとつてはA級戰犯は存在しないのである。

勿論、いはゆるA級戰犯をはじめとして、戰前・戰中の指導者には敗戰責任がある。内政や外交の失敗、無意味な軍事作戰などについて、實態の解明と責任の所在を明らかにすべきである。それらは嚴しく問はなければならないが、その場合でも單なる惡玉探しをするのではなく、個別の問題の研究から組織論・文化論までを含めて、冷靜に歴史を檢證することが必要である。同時に、多くの日本人が不當性を認識してゐる東京裁判についても見直しが必要である。

結び

私は日本人は靖國神社に參拜すべきと考へる。天皇陛下も自らの名の下に戰つて死んだ者たちが祀られてゐる靖國神社に行幸して頂きたい。首相はじめ政治家の公式參拜も、常識の範圍で行なふべきであると思ふ。近代の日本が行なつた戰爭がすべて聖戰であつたとか、すべて惡い戰爭であつたとか、さういふ非現實的な話ではなく、國のために殉じた同胞に對して人間としてどうあるべきかといふことである。

※附記

靖國神社に關しては、私は以前「キリスト教徒を靖國に祀る是非をめぐる考察」といふエッセイを書いてゐる。小稿と關聯する内容なので、再掲載しておく。

キリスト教徒を靖國に祀る是非をめぐる考察

平成18年8月6日

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商品としてのナショナリズム

高坂 相

ナショナリズムには今でも大衆を動員する力がある。政治がナショナリズムを利用するのは世界中どこでも見られる光景であり、現在ならアメリカ・中國・韓國などが特に顯著である。日本も戰前は政治や御用マスコミが國を滅ぼすほどナショナリズムを利用した前科がある。戰後は左翼が反米運動にナショナリズムを利用したといふ歴史があるが、左翼運動が退潮した一九七〇年以降は國民は概ねナショナリズムに對して醒めた態度を取つてきたと言へる。

現代の日本では、ナショナリズムを利用するのは專ら資本である。スポンサーの意を受けたマスコミや廣告代理店が、W杯サッカーなどのスポーツ大會の際に、大衆を動員するためにナショナリズムを煽るといふケースがほとんどである。テレビをはじめとする利害關係者は、盛んに日本代表を宣揚する。さうすることが視聽率や經濟效果などの利益につながるからである。保守派の中には日頃ナショナリズムを批判してゐるマスコミのダブルスタンダードぶりに眉を顰めて見せる者もゐるが、ナショナリズムの批判者であるマスコミはその利用價値もよく知つてゐるのである。

たとへばW杯ドイツ大會1次リーグ豫選の日本戰で民放唯一の放送權を獲得したテレビ朝日を例に取らう。ナショナリズムに對して批判的立場にあると思はれるテレビ朝日は盛んにナショナリズムを煽つてゐたが、これには理由がある。テレビ局の經營は視聽率で成り立つてゐる。テレビ朝日は視聽率を稼ぐためにナショナリズムを利用したのである。

テレビ朝日のこれまでの最高視聽率はW杯アジア地區最終豫選の日本−北朝鮮戰47.2%(平成17年2月9日)で、これもまたサッカー中繼だつた。つまり、W杯サッカーの放送が高い視聽率を狙へることは豫めわかつてゐたのである。これまでのサッカー中繼の最高平均視聽率は日韓共催W杯サッカーの日本−ロシア戦66.1%(平成14年6月9日、フジテレビ系)で、テレビ朝日はこれを超える67%を目標に掲げてゐたさうである。ビデオリサーチの調査によれば、テレビ朝日が6月18日夜に中繼したサッカーW杯の日本−クロアチア戰の平均視聽率は、關東地區52.7%だつた。これはサッカー中繼では歴代6位の高視聽率で、テレビ朝日としては何と開局以來の最高視聽率だといふ。67%といふ目標こそ達しられなかつたものの、ナショナリズムを利用して視聽率を稼ぐといふ狙ひは見事に當たつたのである。

現代の日本ではナショナリズムは主に商品として流通してゐるのである。目的は大衆動員(大衆を熱狂させるイベントを演出すること)と金儲け(視聽率を稼いでスポンサーにとつての價値を上げること。關聯商品の賣り上げ。波及する經濟效果など)であり、ナショナリズムそのものはあくまで手段である。テレビ朝日の異常な高視聽率を見ると、サッカーのファンでもないのにマスコミが仕掛けた商品としてのナショナリズムに乘つた人々が大勢ゐたことがわかる。ここでも商品としてのナショナリズムの有效性は實證されたのである。ナショナリズムの商品化の危險性に警鐘を鳴らす良識派や、ナショナリズムの商品化に不快を表明する保守派がゐるが、この視聽率を見ると、マスコミや廣告代理店がナショナリズムの商品化をやめるはずがないことがわかる。

問題は大衆動員力のあるナショナリズムを政治が利用することである。スポーツイベントでナショナリズムを煽つて大衆を動員してゐる段階は安全である。スポーツ選手を含む利害關係者にとつても大衆的な人氣を獲得することは必要であるし、スポーツイベントの盛り上がりは、關聯企業ひいては國全體の經濟效果にもつながる。この段階では問題は少ない。しかし、戰前の朝日新聞を見ればわかるやうに、マスコミは危險な存在にもなり得る。權力の監視役としてマスコミは社會的に必要なものと言へるが、節操がないマスコミは危險である。ふだんはナショナリズムに對して批判的言辭を弄してゐるのに、視聽率のためには一轉してナショナリズムを煽る。主義主張が一貫してゐるのなら權力の監視役としての役割も期待できる部分があるが、利益のためなら何でもするといふのでは危險極まりない。

マスコミと政治が結託して世論を誘導し、大衆を操作する危險性は承知しておくべきであらう。一旦政治的なナショナリズムに火が着くと、鎭靜させることは容易ではない。現時点ではナショナリズムは主に資本が利用してをり、田中眞紀子ブームや小泉純一郎ブームはナショナリズムとはほとんど關係のない政治のワイドショー化に過ぎないが、それで選擧結果が左右されるわけだし、國家や國民生活の根幹に關はる重要法案も通つてゐるのであるから、マスコミの政治關與(裏を返せば政治によるマスコミ利用)にはすでに弊害は出てゐるとも言へる。權力の監視役であるマスコミに對しても、常に市民の監視の目を注いでゐることが必要である。

平成18年7月3日

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愛国心は法律に盛り込む文言ではない

清水一憲

表題の件について、愚見を述べさせて頂きたいと思います。

今国会の注目法案として教育基本法改正案が審議されています。メディアでもその内容が連日報道され、世論の関心も高まっているように感じています。

その上で、愛国心という概念を教育基本法の文言として盛り込む必要は本当にあるのでしょうか。私は、その事に疑問を感じている一人であります。

その意味では、本来なら国旗国歌を法制化するべきではなかったと思いますし、自由主義を奉ずる者ならば法律で内心の自由を制限するような事には慎重にならなければならないと考えています。

無論、靖国神社に行くななどという外国政府の恫喝にも屈するつもりはありません。

即ち、権力が肥大化して自由が抑圧される全ての可能性を警戒するのが「市民」であると私は信じています。私自身は国を愛する心を持っていますが、それは人に逢った時には「こんにちは」、食べ物を頂く時には「いただきます」と言う如く、不文律であります。

愛国心を法制化するなら、「挨拶基本法」とやらも作って挨拶をする事を法制化してはいかがでしょうか。「法制化」とは、こうした問題ではかように馬鹿げたものだという感覚が麻痺している「社会の病理」、それは保守革新を問わずに共通のものとなってしまったのでしょうか。革新派ですら、法制化に反対はするものの、このような議論自体が「茶番」だという声は聞こえてきません。双方、「本気の戦闘」であります。それは、「茶番の拡大」以外の何物でもない、と言ったら言い過ぎでしょうか。

だとしたら、私はそれが残念でなりません。無論、一瞬残念がるとして、そこに留まり続けるナイーブな心には程遠い無神経な我が身としては、早速このような場で「茶番だよ」と感じた所を発信する訳ではありますけれど。

話を戻します。

愛国心法制化に反対する事は、ややもすれば左翼的物言いであるかのように思われるかも知れませんが、むしろ真の良識的市民であれば、明治天皇の教育勅語を法制化するのではなしに「君主の著作」として、また「道徳の勧め」として、国民の良識に訴える形でこれを発表した井上卿の智恵に倣うべきなのではないでしょうか。更に、私は保守革新を飛び越えるなどという可愛らしい感覚を持つ柄ではありませんが、付き合いは勿論大事にするとしても保守派であるなら愛国心法制化に賛成という風潮には距離を感じます。これは、我が身は信念に忠実であるのか、それとも陣営に忠実であるのか、という意識ある者ならば必ず感じた事があるであろう疑問の提示としても、敢えて文章化させて頂きます。

法的拘束力が伴わなければ常識も守れない現代社会の象徴的な事例として、「愛国心法制化の暁」には「人間が猿になった屈辱の日」として一生心に刻む事にします。

国旗国歌の問題にしても、愛国心の問題にしても、日教組封じ込めのための措置であるならば、なんと大仰な、と感じます。正論などの保守系月刊誌では日教組による教育現場の支配の強さが取り上げられていますが、それは昨日今日にそうなったものではないのではないでしょうか。言わんや、授業を放棄してデモに行き、その時間の給料は貰っていたなどとはセコい話だとは思いますが、そのような不埒者を処断せずに曖昧な体制を取ってきた学校管理職の怠慢の積み重ねが日教組の増長を生んだものと解します。日教組出身の学校管理職も同様にです。

そして、そのようにして溜まりに溜まった「現場の膿」を法制化で解決しようなどとは言語道断。本来なら、責任者達はそれほどの混乱を招いた責任を取るべきであると考えます。

教職員組合は給与・待遇の改善を求める事は出来ますが、政治的主張を行う権能は付与されていません。そこを「突破」されたのは「戦闘の末」ではなしに、学校管理職の怠慢にあったという事は正論の記述からすら明らかであります。

ともあれ、愛国心法制化に潜む本質的な問題点が何であるのか、その事を上記で申し上げましたので、これをたたき台として頂きたいと思います。

最後までご覧頂いた方に厚く御礼申し上げます。

平成18年5月22日

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