高坂 相
靖國神社は國家のために戰つて殉職した御靈を祀る宗教施設である。小泉純一郎首相が靖國を「平和を祈るために參拜する」とすることで中國・韓國と左翼マスコミの批判を躱さうとしてゐたのは記憶に新しい。しかし當然ながら靖國は國家の戰爭を價値づける宗教施設である。決して敵への憎惡を増幅するための施設ではないが、そこでは同胞のために敵を殺すといふ行爲が價値づけられてゐるのは明らかである。平和といふ状態が戰爭をする準備と覺悟、そして非常時には實際に戰ふことに支へられてゐるといふことに於いて靖國を「平和の施設」と呼ぶことは間違ひではないが、それが「戰爭の施設」といふ本質と直面することを囘避・隱蔽するために口にされたものだとすれば、姑息な誤魔化しであり、僞善以外の何物でもない。言ふまでもなくかうした「戰爭と平和のための施設」はどこの國にもあるが、神道は日本の民族宗教であるから、英靈の御靈を祀るのに靖國神社のやうな形にしたのは、日本人にとつては自然であつた。そもそも人を神に祀るといふ發想が神道のものなのである。
民族宗教たる神道形式によつて英靈を祀る靖國神社は本來ならば國家が護持すべきものであるが、戰後日本といふ國が極端に無國籍化してをり、現憲法下の法學的通念が異常に嚴格な政教分離の立場を採つてゐる現状に鑑みて、靖國神社を無神論的官僚や政治家、左翼マスコミ、左翼的佛教徒やクリスチャンの玩具にさせないためには、日本人の宗教的傳統を重んずる民間有志がこれを支へるべきものと考へる。靖國神社は國家とは獨立した宗教法人であり、從つてその存在そのものが現憲法の政教分離規定に牴觸するわけではない。政治家が參拜したければ來るのは勝手であるが、「靖國公式參拜は憲法違反云々」は靖國の與り知らぬことである。なほ、靖國神社の本質と現状に關しては、弊誌第五號掲載の伊達青衝「靖國神社を想う――人を祀るということ」を參照されたい。
ところで、本稿のテーマは「キリスト教徒を靖國に祀る是非」である。弊誌のウェブサイトを御覽になつてゐる方はご存じだと思ふが、ネット上に於いて私が偶々討論を交すことになつた經濟學者で歌人の神山卓也氏といふ方がをられる。神山氏のサイト『カミタクの部屋』に「靖國参拝と國家による戰歿者の慰靈について」(平成十一年執筆、同十四年改訂)といふ文章が掲げてあつた。本稿ではこの文章を手がかりにこの問題を考へてみたい。
神山氏は保守系の政治家候補生(自由黨所屬)であり、思想的には自由主義ナショナリストである。靖國神社そのものに反對してゐるわけではない。神山氏の立場と主張は次のやうなものである。
靖國神社は尊重するが、キリスト教徒である自分の靈魂が異教によつて祀られるのは精神的苦痛である。しかし神道によつて祀られることを望まない愛國者も、戰死した時に國家によつて顯彰されることは望む。從つて靖國神社が國家施設になることは信教の自由と政教分離の觀點から反對である。だが現状では英靈のための施設は靖國しかない。ゆゑに國立の汎宗教形式の慰靈施設を建設し、非神道者のための魂の居場所を作つて欲しい。國立の慰靈施設が作られたのちも、靖國神社が民間の慰靈施設として存續することは尊重する――。
神山氏が「無宗教形式」ではなく「汎宗教形式」と言つてゐるのはさすがである。英靈の慰靈は明らかな宗教行爲であり、國立慰靈施設とはすなはち國家が管掌する宗教施設であるといふ本質を神山氏は見逃してはゐない。考へやうによつては、國立慰靈施設は、なるほど特定の宗教とは分離してゐるとは言へるが、實態としては政教分離どころか國家宗教の創設とも言へるものなのである。 以下に、神山氏の文章から核心部を引用しておく。
基督教徒である私の場合、自分が前線で死んだときに、自分が信じていない宗教の神殿に祀られるということは、はっきり言って精神的苦痛以外の何ものでもない(特に、私が信じる基督教という宗教の場合、唯一絶對の神以外の何ものも神とすることは十戒に反する大罪であるので耐え難い苦痛であるが、私にとって祖國は日本しかないので、日本以外の國に命を捧げる譯にもいかないのである)。
神道は、全ての宗教を信じる者に對して寛容であり、何でも受け入れてくれる宗教であることはよく分かっている。しかしながら、神道の側にとってキリスト教徒を祀ることが問題無いことであっても、キリスト教徒の側にとっては神道という異教の神殿に祀られることは問題があるのだ、ということを神道の側の愛國者にご理解いただきたいと思う。
靖國神社という特定宗教の宗教形式でのみ戰歿者慰靈が行われる現状では、私のように「愛國精神に滿ちているが宗教は神道ではない者」にとっては、精神的居場所が無いのである。だからこの意見は、精神的居場所を作って下さいというお願いでもあるのである。
神山氏の立場は明確であらう。愛國者のキリスト教徒である神山氏が戰死した時に、異教である靖國神社には祀られたくないので、魂の居場所として汎宗教的な形式の國立慰靈施設を建設してもらひたい、といふものである。さて、神山氏のこの主張を宗教的側面から考へてみようといふのが、本稿の目的である。
私の問ひは簡明である。
「靖國神社にカミとして祀られることを、キリスト教徒はいかなる論據によつて拒否できるのか?」
おわかりだらうか。この問題は「信教の自由」をどう考へるかにかかつてゐる。「信教の自由」といふ概念は信仰を(あるいは棄教を)強ひることを禁じたものであるが、問題は靖國神社が宗教としての内的な理由によつて人を祀ることを、法的に規制できるのかといふことだ。キリスト教徒としては法的には「宗教的人格權」なる概念に依據することにならうが、キリスト教徒が靖國神社にカミとして祀られることをいかにして拒絶できるのかといふことは、實は難問なのではなからうか。すなはち、ある個人ないし集團が、何ものかを信仰の對象とすることを禁止できるのだらうか。それを禁止することは「信教の自由」(祀る自由)を否定することにならないのか。たとへばイスラム教ではキリストを「神の子」ではなく聖人と見做してゐるけれども、キリスト教以外の宗教もキリストを「神の子」として位置づけなければならない、さもなくばキリストをその宗教體系の中に位置づけてはならない、とキリスト教徒は主張するのだらうか。もしさうであるとすれば、キリスト教以外の宗教は認めないと言つてゐるのと同じである。そもそもキリスト教徒はキリストを祀つてゐるわけだが、キリストが「私を『神の子』として祀れ」と言つたのだらうか。それとも、キリスト教徒がその宗教的な動機によつてキリストを勝手に祀つてゐるのだらうか。
神道の立場からすれば、キリストを祭神とした神社を建てることには何の問題もない。唯一絶對神たるゴッドを、神道が多神教の一柱として祀ることも可能である。現にゴッドやキリストを祀つてゐる神社は實在するのではなからうか。ゴッドでさへ祀ることができるのである。況はんやキリスト教徒を祀ることに於いてをや。
ある宗教によつて祀られる本人、または家族にとつて、祀られ方が名譽を著しく傷つけられるものであるといふことはあり得る。たとへば何の根據もなく「惡の神」として祀られるやうな場合である。その場合は、宗教とは別の文脈で、名譽毀損として訴へることはできるかもしれない。しかし實は「祀る自由」といふ觀點からはこれすらも規制できるか疑はしいのである。ましてや、靖國のやうに、祀る基準がはつきりしてをり、護國の英靈を慰靈・顯彰するといふ行爲が常識に照らして死者の名譽を汚したり損なつたりすることがないと判斷される場合は、それを規制する根據はないはずなのだ。キリスト教徒が異教徒によつて神として祀られることは、不名譽な、許されないことなのだらうか。神道が邪教だからだらうか。根本的な問題を問へば、果して「他宗教に祀られたくない宗教的人格權」といふものが成立するのか。
靖國神社にとつては、日本國のために殉じた英靈であれば、キリスト教徒であらうと、祀るしかないのである。靖國自身の内的な問題として、神と祀る明確な基準がありながら、祀られる側の意思を忖度して祀るか祀らないかを選別するといふことはできない。キリスト教徒だから祀るなといふ論理は、A級戰犯だから合祀から外せといふ論理と同樣、神として祀る基準を外的な理由によつて捩ぢ曲げなければならないといふ點に於いて、實は等價なのである。すなはち、「キリスト教徒であるから靖國に祀るな(あるいは合祀から外せ)」といふ論理を認めることは、靖國の本質を否定するものなのである。汎宗教形式の國立慰靈施設が建設されることに對しては特に反對するものではないし、靖國に參拜したくない人がそちらに參拜することもその人の自由である。しかし國立慰靈施設建設の目的が、神道形式によつて祀られることを望まない英靈の御靈はそちらに祀り、靖國には祀らせないといふものであるとすれば、問題にせざるを得ない。はつきり言へるのは、國立慰靈施設が建設されるされないに關はらず、靖國は自らの基準によつてすべての護國の英靈を祀り續けるといふことである。
神山氏のやうな愛國者のクリスチャンには、かうしたことをわかつてもらひたい。クリスチャンすべてが反日活動をしたり靖國神社に反對したりしてゐるわけではないにしても、「信教の自由」といふものの誤解に基づいた「キリスト教徒であるから靖國に祀るな(あるいは合祀から外せ)」といふ主張は、結局は宗教戰爭でしか解決できないやうな問題提起になつてゐるのである。
初出 平成14年12月8日『奇魂』第六號所収(※原文はすべて正字)
轉載日 平成18年8月6日
■關聯URL
神山卓也『カミタクの部屋』
伊達青衝「靖國神社を想う――人を祀るということ」
※追記
ウェブサイト上に掲載するに當たり、神山卓也氏に聯絡を差し上げたところ、氏から「靖国神社参拝と国家による戦没者慰霊について」改訂版のご案内を頂いた。併せて昨年書かれた靖國關聯のコラムのご案内も頂いた。ご厚意を謝して、ここに紹介する。
「靖国神社参拝と国家による戦没者慰霊について(1999,2002改訂,2005再改訂)」 「小泉首相靖国神社参拝について――小泉首相靖国神社参拝に賛成する(2005年11月)」平成18年8月9日
※追記2
さらに神山卓也氏から「靖国神社参拝と国家による戦没者慰霊について」加筆修正版のご案内を頂いた。キリスト教徒の立場から靖國神社について改めて考へ直されたもので、拙論「キリスト教徒を靖國に祀る是非をめぐる考察」の問題提起に對する囘答も含まれてゐる。加筆修正版で氏は、神道といふキリスト教徒から見た異教を尊重する立場から、靖國神社がキリスト教徒を祀ることを認める考へを打ち出されてゐる。同時に、「汎宗教的な戦没者慰霊の場が必要であり、靖国神社だけが『慰霊の場』であることは不足していると考える」と、キリスト教徒としての見解を示されてゐる。
「靖国神社参拝と国家による戦没者慰霊について(1999,2002改訂,2005再改訂,2006年8月加筆修正)」平成18年8月13日