暮らしの雑記帳
NHK、何のために維持するのか
高坂 相
平成十八年十月五日、橋本元一NHK會長は、受信料不拂ひを續ける東京の48の世帯・事業所について、月末までに支拂はない場合、十一月に簡易裁判所を通じて督促すると表明した。これによつて、簡易裁判所への申し立て後に督促状が放置された場合、不拂ひ者の財産を差し押さへることも可能になる。橋本會長は、今後督促を全國に擴大し、推計約989萬件の未契約者に對しても年内に法的手段に訴へることを前提に受信料の支拂ひを促す通知を送ると發表した。この發表の數日後には、受信料不拂ひや未契約だつた3000件以上の世帯・事業所が支拂ひを申し出たといふ。法的手段に訴へるといふNHKの意思表明に怯えたのである。
世の中にわからないことは多いが、このNHKの問題もその一つである。NHKの不祥事に端を發した受信料不拂ひ問題であるが、私が疑問に思ふのは、法的手段にまで訴へてNHKを何のために維持しなければならないのかといふことである。信頼囘復といふことを、NHKも、またこの問題を論じる他のメディアもしばしば口にする。しかし、多くの日本人は別にNHKを信頼したいとは思つてはゐないだらう。從つて、信頼囘復も不要といふことになる。NHKはまだ改革が足りないとか、襟を正せとか言ふやうな、NHKの存續を前提にした議論以前に、今必要なのは、NHKを何のために維持しなければならないのかを問ふことであらう。
報道によれば、橋本會長は法的手段に訴へることについて、「公共放送として文化をはぐくむ役割があり、國民全體の共有財産でもある。それを維持するために受信料が必要。支拂ひ者に對する不公平感をなくすためにも、實施することにしました」と話したといふ。メディアが文化を育むことはあり得るし、實際、NHKもその役割の一端を擔つてきたかもしれない。しかし、假にNHKが文化の一端を擔つてきたとしても、それがNHKを維持する理由にはならない。國民から受信料を徴收して、公共放送なるものに文化を育んでもらふ必要はないからである。また、NHKが「國民全體の共有財産」であるといふ意味もよくわからない。國民であればそれを維持すべきもの、あるいは少なくとも個人としては氣に喰はなくても國民的に維持されることを容認すべきものはたしかにあるが、NHKはそれに該當するだらうか。到底該當するとは思へない。このやうにNHKの存在理由が判然としないのだから、「それを維持するために受信料が必要」と言はれても、その認識を共有することはできないのである。
私が特にNHKに疑問を持つのは、NHKの政治的偏向に對してである。民間のメディアが偏向してゐることは、彼らの自由である。視聽者はそれを判斷し、評價し、選擇することができる。しかし、税金のやうな形で強制的に受信料を徴收しておいて政治的偏向番組を制作・放送されては堪つたものではない。何も保守的な番組を作れと言ふわけではない。右であれ左であれ、税金のやうな受信料で政治的偏向番組を作ることはをかしいと言つてゐるのである。
NHKの法的根據は昭和二十五年五月二日に施行された放送法の第二章に規定されてゐるが、その冒頭にNHKの「目的」が謳はれてゐる。
(目的)
第七条 協会は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内放送を行い又は当該放送番組を委託して放送させるとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び委託協会国際放送業務を行うことを目的とする。
放送局が一つしかなかつた時代、あるいはNHKしか映らない地域があつた時代には、NHKにはそれなりの存在理由があつたのだらう。NHKの職員にしても、かつては國民的な放送局として、國民のためといふ志を持つてゐたのかもしれない。しかし、現在はさうした意識は持つてはゐないだらう。公共放送を標榜しながらも、現在はもはや、NHKの職員は自らの存在理由を見失つてゐると思ふ。それはNHKがすでに歴史的使命を終へてゐるからであり、新たな存在理由も見當らないからである。だから、腐敗した公共團體と同じやうに、腐敗してゐるのである。
放送内容に關しては、NHKは良質な番組を制作してゐるといふ話がある。たしかに良質な番組はあるけれども、NHKが無くなつたら困るといふほどのものではない。NHKが民放よりも良いといふこともない。NHKにも良いところはあり、民放にも良いところはある、といふだけのことである。教育テレビは存在意義があるのではないかといふ意見があるかもしれないが、情報や學習の機會が豐富にある現在では、特に必要なものではない。NHKは視聽率を度外視した番組を作れるところに意義があるといふ聲もあるが、視聽率を度外視した番組を作りたい人々のために國民から強制的に受信料を徴收するといふ論理は奇妙である。現代のテレビは多チャンネル化と個性化の時代であり、CSのやうに專門チャンネルの中から觀たいチャンネルに加入したり、觀たい番組を個別に買ひ取つたりするシステムが適してゐる。情報を得たければインターネットもある。それらは國民が自發的に金を拂つて選擇でき、價値がないと思へば契約をやめることができるものである。しかし、NHKは國民から強制的に受信料を徴收して維持するといふのである。
結局、NHKといふ巨大組織を維持するため、すなはち膨大な施設の維持費と職員の雇傭對策として、國民から受信料を徴收するといふことではないのか。もしさうだとすれば、こんな馬鹿馬鹿しい話はない。公共的役割を擔ふ放送は必要といふことならば、政府公報や國會中繼、災害や有事などの際の緊急放送のための放送局を東京に作り、全國にはアンテナだけあれば用は足りる。當然、公共的役割を擔ふ放送にドラマやバラエティ番組や歌番組などは不要である。
NHKを維持したければ、民營化して廣告收入で經營するか、觀たい人だけが契約するペイチャンネルにすればいい。國民から強制的に受信料を徴收してまでNHKを維持する理由はない。
※附記
簡易裁判所への申し立て後、督促状が放置された場合、不拂ひ者の財産の差し押さへが執行されることになるだらうが、その場合、不拂ひ者側が二週間以内に異議申し立てをすれば、そこから訴訟が始まる。NHKが組織維持のために強硬手段に出れば、不拂ひ訴訟が頻繁に起こされることも豫想される。(經濟的に支拂ひが難しい家庭は、強制的徴收を免除されるらしい。)
■参考資料
「放送法」
平成18年10月14日
サラ金問題について
尾崎
先日、サラ金大手のアイフルが金融庁から業務停止の処分を受けた。
過剰な貸し付けや強引な取り立てが違法とみなされたようで、これを受けて、現在、サラ金の高金利や取り立てに対する批判が世間で高まっている。
利息制限法に違反する高金利の問題はテレビ・新聞以外のメディア、たとえばネットや雑誌、書籍、はては漫画にいたるまでかなりの媒体が取り上げていたことで、事件があったあとにさも今知ったかのような顔をして後追いするテレビ局・新聞社の報道姿勢(しかも、同じように利息制限法違反の他社CMや広告は自粛しない)にとても歪なものを感じるが、しかし、マスメディアの代表であるテレビ・新聞の後追いのお陰で悪いものが悪いと周知されてきたのだから、結果としてはそれはそれでよいのだろう。しかし、気になることも一つある。それは、肝心の債務者の側の責任を問う声がほとんど聞こえないことである。
少し話を変えるが、皆さんは、サラ金に依存して破滅しやすい普通の人とはどういう人かおわかりだろうか。ちなみに、ここでいう「普通の人」とは、賭博依存症のような特殊な依存癖を持っていない人のことであり、また、連帯保証で債務をかぶったとかそういった特殊な事情で借金を負ったのではない人のことである。
経験則からいえば、それは、人に対して弱みを見せられない人である。
サラ金に手を出す、ということは、早い話が一時的にせよ恒常的にせよ支出が収入を上回ったということで、そこで支出を落とせれば問題ない。しかし、人に対して弱みを見せられない人は、生活レベルを落とすということを弱みと捉えがちなため、支出を抑えることができない。抑えることができなければ、借金で一時的にキャッシュが増えたとしても、月々の支出は元利返済という形で膨らんでいくのだから、月を負うごとに支出超過は増していく。その場しのぎの金策に走る。そうしたことを繰り返していくうちに、借金が雪達磨式に膨らんでいき、破滅していくわけである。
私の知り合いで、特定のブランド品を好み、会食となれば必ず人に奢り、外車を乗り回し、月2でゴルフに行くような生活水準の高い男がいて、彼は女性関係と公営賭博がきっかけで収支のバランスが崩れ、支出超過→預金の食いつぶし→銀行の個人融資→クレジットによるキャッシング→サラ金→クレジット換金→闇金(注1)と流されていき、最後にはどうにもしようがなくなって退職金目当てに職をやめ、エリート人生を棒に振ったわけなのだが、彼もまた人に対して弱みを見せられない人間であって、転落の間中も、その高い生活水準を落とすどころか、ばれないようにますますその貴族生活に拍車を掛けていた観すらあった(事実、私も彼に何度か飯を奢ってもらったことがあり、知らなかったこととはいえ、彼の破滅に手を貸していたわけである)。
或いは、これはある本に載っていたのだが、ある広告代理店に勤める妻子ある身なりのよい男が銀座での豪遊をきっかけに借金の泥沼に嵌り地裁に破産(注2)を申し立てするに至ったが、その時まで一つ屋根に住んでいるはずの妻でさえ、夫が借金をしているという事実に気づかなかった、という話もある(注3)。支出が収入を上回ってしまいそうなときに、もし彼らが見栄を押さえて生活水準を下げることができれば転落することもなかったわけだが、そういう正論は彼らには通用しない。私がサラ金に依存して破滅しやすい人は人に対して弱みを見せられない人である、というのはそういう意味である。
いかんせん統計を取ったわけではないので断定ができないが、私は、特殊な事情の人を除いて、サラ金の借金に苦しむ人の少なからぬ人はある種の見栄からそうなったのではないか、と考えていて、そういった人たちの責任は再発防止という点で問われて然るべきだと考える。
確かにサラ金の利率は高い。しかし、私が最初に上げた知り合いの例では、始まりは銀行の個人融資であり、こちらの利率は借り手の信用力にもよるがサラ金より10%前後は低いはずである。しかし、彼はそれでも破滅した。考えてみれば、仮にサラ金の標準的実質年率である29%で10万円借りたとして、月利3%弱だから月の利払いは二千数百円であり、確かに安くは無いが、破滅するほどではない(注4)。つまり、高金利は決定打ではない、ということだ(注5)。
そう考えたとき、利率の高さや強引な取り立てを槍玉に挙げるばかりで債務者の自己責任を問わない姿勢は、将来同じようなことがおこることの防止策としては、役に立たないどころか、心理面での問題という本質を誤魔化している、という点で有害ですらある、と私は思う。借金で破滅する人のすくなからぬ数は、たとえ利率が半分であったとしても同じように破滅する人なのである。
現在、大手サラ金のうち、最大手の武富士以外はすべて大手都銀と資本提携を結んでいる。個人債務者に対する取り立て・情報等のノウハウに弱い銀行側と、銀行の潤沢な資金・信用力が欲しいサラ金側の利害が一致しているからであろうが、今後、利息制限法超過の利率での貸し付けが無効ということになれば、サラ金単体での経営はますます難しくなり、結果、資本提携の流れはますます加速するだろう。
つまり、実態を誤魔化すために今まで流されてきたグラビアアイドルのユーモラスなCMに加えて、今度は大手都銀という抜群の信用力が加わるということである。これから先、少なくとも心理的な意味では、個人が借金をする上での障壁はむしろ低くなるといってもよい。天涯孤独の身の人間が手前で勝手に破滅する分にはいい。しかし、多重債務問題の本当の恐ろしさは、大抵の債務者には妻子や兄弟姉妹・父母といった家族、親類知人がいる、という事実、そして、大抵の場合、それら真っ当に生きている人もまた当事者として巻き込まれてしまう、という事実である。今、債務者の道義的責任を問うことで借金そのものに対する心理的障壁を高くしなければ、これから先も、債務者だけでなく彼・彼女の家族や親類、知人を巻き込んだ悲劇がまた繰り返されるだろう。
サラ金側の悪は悪として法的に大いに糾弾すればよい。しかし、その悪を糾弾することの反作用として、債務者を法的な意味ばかりでなく道義的な意味でも純粋な被害者に仕立て上げるのは、社会にとっても本人自身にとっても、また、その周りにいる人にとってもマイナスであることを忘れてはならない。
最後に、本旨とは少しずれるが、将来、子供達が借金をしないようにするにはどういうことをしては<ならない>かを2点だけ述べる。
まず、小中学生に株をやらせる類のマネー教育は絶対に止めるべきだ。株にせよ何にせよ、投資は比の思考であり、比は伸縮自在であることから、結果として、金銭感覚をルーズなものとする。たとえば、ある銘柄の株価が5%上がったとして、子供達(大人もそうだが)は、この株を1000000円分もっていれば5万、ならば、10000000円もっていれば50万……と規模をどんどん大きくして考える。適当なタイミングでマウスやキーボードを叩くという軽い行為と、50万という大金が意識的にせよ無意識にせよ結び付けられる。結果、50万というお金が労働価値、生活価値を持たない空虚なものになる。この経験は金銭感覚を体得していく上で必ずマイナスに働くし、また、将来、ちょっと困ったときや仕事が嫌になったときに、それじゃ株で稼ぐか、ということ、或いは、どうせ株で稼げるから贅沢したっていいや、ということになる可能性が高い。しかし、そのような思考は所詮は机上の空論に基づいた、捕らぬ狸の皮算用に過ぎないのである(注6)。だから、絶対に止めて欲しい。
次に、子供達に安易にお金を上げるのは絶対に止めて欲しい。これも適切な金銭感覚が麻痺する。適度なお小遣い以外にお金を上げたいなら、それに見合った労働の対価として与えるべきである。
以上、2点。要するに、適正な金銭感覚を身に付けさせればそれでよいのであって、バランスシートの見方とか現在価値への割引がどうかとかいった投資の知識はその後でも全然遅くはないのである。
(注1)
クレジット換金、というのは、借り手?側のクレジットカードのショッピング枠などで高価な商品を買い、貸し手?側はその商品をもらうかわりに、商品値段の6掛けだか7掛けだかのお金を渡す仕組みのこと。商品が新幹線の回数券のようなさばきやすい金券の場合はもっと換金率が高いが、クレジットで金券を買い金券ショップに持ち込んでお金に換える、という個人的な金策が一時横行したため、現在はクレジットによる商品券や回数券の購入を原則禁止している販売元がほとんどと聞く。いわば安易な借金が出来ないよう自主規制が行われているわけだが、結果として困った個人がより換金率の低い(利子の高い)換金システムやサラ金に流れているとも解釈できる。このことは、借金に対する数字的意味での障壁を高くしても、同時に心理的意味での障壁も高くしなければかえって事態が悪化するということの一例とも解せよう。
(注2)
単なる浪費による借金では免責は下りない、というのが建前だが、実際は弁護士のアドバイスにしたがって「やむをえない事情」を半ば捏造すればなんとかなるそうである。
(注3)
この話には後日談がある。借金の事実、破産申し立ての事実を知ってしばらくあと、その男の妻は自殺した。後の転落、世間体を苦にしたのか、或いは最後の最後まで気づかなかったことへの自責の念だろうか、今となってはわからない。そして葬儀の翌日。自己破産ということになれば実質的に債務が消滅するわけだから、破産宣告を受けた事実を債権者に伝える必要があり、担当の弁護士は、その旨、男に告げた。返ってきた返事は、「他はいいが、×店のツケだけはなんとかならないか。ママに格好がつかない」というものであった。それを聞いた弁護士も流石に頭に来て怒鳴りつけた、という話である。ちなみに、男のいう“ママ”とは、死んだ奥さんのことではもちろんない。この後日談、俄かには信じがたいかもしれないが、債務者の心理に鑑みて、私はこの話に強いリアリティを感じる。
(注4)
ちなみにサラ金は複利ではなく、実質年率ベースの単利である。貸金業規制法だったか忘れたが、法律では金融業者による貸付の際に業者側に実質年率の提示を義務付けており、したがって、闇金でもなければ、個人に対する貸し付けで複利が採られることはまず有り得ない。そして、複利で無い以上、世間で言われているような、サラ金の高金利による借金の雪だるま式増大は、返済方式を考えても年率30%弱での利息計算を考えても、少なくとも数学的には有り得ない。
(注5)
もっとも、決定打ではない、ということと、サラ金側に責任がない、ということとは違う。今でこそこの限りではないだろうが、少し前までサラ金では、たとえば10万円借りに来た人に対して、「それでは何かあったときに困るでしょう。もう10万円追加しておきます」と親切そうな顔をして余分に貸し付けるようなことをやっていた。何故そういうことをやるかといえば、営業所としての実績を伸ばす、という意味に加えて、お金が手元にあることにほっとしてそれが借り物であるという意識が希薄になる、という債務者の心理を読みきった上での打算があるわけだ。或いはほとんどのサラ金が元本残高のクラスごとに最低支払い返済額というのを設定(たとえば元本残高が0〜10万円の範囲内にあれば最低月々3000円といった具合。これはA社の例。)し、月々最低この額だけは返済してくださいね、という風な返済システムを採っているわけだが、この最低額というのがこの額に従って返済していったら完済まで4、5年は掛かる(大抵のサラ金のHPには返済シミュレーションが載っているから、興味のある方は是非お試しを)という代物で、要するに、完済までに債務者からとれるだけ利子をとってやろう、という意図があるわけである。しかし、肝心なのは、余分に貸し付けることにせよ、返済最低額を文字通りの最低額に設定して返させることにせよ、サラ金側が強制したわけではなく、サラ金側がいかなる意図をもっているにせよ、少なくとも表面上は、それらのサラ金側の提案に乗るか乗らないかは債務者側の意思次第ということである。そういった意味で、サラ金に責任がある、というのは、具体的に賠償を求められるとかそういった法的な意味あいでなく、あくまで道義的な意味あいにすぎない。サラ金がCMで「ご利用は計画的に」と言っているのは別に破産者の増大を危惧しているわけでもなんでもなく、ただ、「必要以上に多く借りたり最低返済額に甘んじて多く利子を払ったりして首が回らなくなるのはお客様の自己責任です、なぜならお客様には計画的により少なく借りる自由も、最低返済額より多くの返済を行う自由も保障されているのだから」、という論理で自己正当化しているに過ぎず、債務者との付き合いの長いサラ金が低きに流れるという債務者の習性を知らぬはずがないから、これはひどいお為ごかしなわけであるが、しかし、内心の自由の保障ということを大原則に法体系を作っているのが今の日本社会なのだから、いけしゃあしゃあとお為ごかしを言える面の皮の厚い人たちに意図云々を批判したところで始まらない。結局、肝心なのは、サラ金にせよ別の企業にせよ、消費者側がしっかりと企業側の意図を見極めて行動するしかない、ということなのだ。
(注6)
比の思考は確かに便利ではあるが、危険なものでもある。たとえば、人間は縦・横・高さの3次元の広がりの中にいるが、仮にある人の体が、縦・横・高さの比は一定に、そのそれぞれの長さだけ数倍だかになったとしよう。そうなった場合、彼はもはやもとのように自分の足で歩くことはできない。なんとなれば、広がりが数倍になることで、重さを支えるべく支持力は面積すなわち数倍の二乗に比例する倍率で増大するが、肝心の重さは体積すなわち数倍の三乗というより大きな倍率で増大するからである。結果、単位面積あたりにかかる力は増し、無理に歩こうとすれば、彼のひざは重みに耐えかねてすぐに悲鳴をあげ、壊れてしまうだろう。同じことが投資と賭博という双子の兄弟にもいえる。賭博にせよ投資にせよ、額が著しく大きくない限りその将来的な“オッズ”すなわち投資額と期待値の比はほぼ一定と考えてよい(もっとも対人ギャンブルは必ずしもこの限りではない)が、しかし、その同じ条件で1万円賭けることと1000万円賭けることは全く別の意味、実質をもった事柄なのである。同じ比であるからといって無闇に額を増大させて、理性や精神が膝の如く悲鳴をあげないという保証はない。
2006年5月13日