現代社会論を読む
高坂 相
藤原正彦『国家の品格』
■藤原正彦は、數年前から保守的な發言をしてゐる數學者で、お茶の水女子大學教授。昨年に出版された本書はベストセラーになり、本稿執筆時點でも賣れ續けてゐる。保守派の聖典の一つにもなつてゐるやうである。
新潮新書、平成17年11月20日、定價680圓(税別)
▼平成の日本イデオロギー
本書は、グローバリズムによる世界再編と閉塞状況に對して、武士道精神による世界救濟を唱へた本である。本書の論理は極めて圖式的で單純化されてゐる。まづ、歐米の「論理と合理」至上主義を現代世界の閉塞状況の原因とし、「論理と合理」によつてグローバリズムに突き進む惡役としてアメリカを配する。他方、「論理と合理」のアンチテーゼとして「情緒と形」、特に日本の「情緒と形」を對置し、日本に世界を救ふヒーローの役割を配する。私の見るところ、このやうな圖式化は、「情緒と形」の重要性を強調するためといふより、感情的な反歐米の色合ひが強い。
本書の基本構造は、近代文明の閉塞状況に對して、それを超剋するものとして傳統的な規範を對置するといふものである。著者のメッセージは、卑怯を憎め、美しく生きよ、といふものに集約できる。この道徳的メッセージ自體は共感できるが、政治論に關しては、リアリズムを無視した精神主義的なものと言はざるを得ない。現代世界では情緒は輕んじられがちであるから、「論理と合理」と「情緒と形」を對比させることには意義はあると思ふが、日本の「情緒と形」によつて世界を救ふ具體的な道筋は描かれてゐないのが本書の缺陷である。本書の政治論はドン・キホーテ的な稚気にあふれた魅力はあるものの、まともなリアリストならば國家運營の指針にはしないだらう。本書は必ずしも愛國心を鼓舞する内容ではないのだが、實踐の書ではなくイデオロギーの書であると言へる。
▼「論理と合理」の限界
著者は「論理と合理」の絶對化を諸惡の根源とする。共産主義は論理至上主義の誤りであつたが、極端な資本主義(市場原理主義)も論理至上主義による誤りであるとし、市場原理主義による弱肉強食の竸爭社會、實力主義社會といふ現代世界の弊害を齎したものもまた、歐米的な論理至上主義であると批判する。自由、平等、民主主義なども、極端にその論理を絶對化すれば道を誤ると警告する。このやうな考へ方は保守思想とも通じる。
著者は「論理と合理」には本質的な限界があると指摘し、それを次のやうに説明する。
論理というものを単純化して考えてみます。まずAがあって、AならばB、BならばC、CならばD……という形で、最終的に「Z」という結論にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして「Aならば」という場合の「ならば」が論理です。このようなAからZまでの論理の鎖を通って、出発点Aから結論Zに行く。
ところがこの出発点Aを考えてみると、AからはBに向かって論理という矢印が出ていますが、Aに向かってくる矢印は一つもありません。出発点だから当たり前です。
すなわち、このAは、論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そして、この仮説を選ぶのは論理ではなく、主にそれを選ぶ人の情緒なのです。宗教的情熱をも含めた広い意味の情緒です。
情緒とは、論理以前のその人の総合力と言えます。その人がどういう親に育てられたか、どのような先生や友達に出会って来たか、どのような小説や詩歌を読んで涙を流したか、どのような恋愛、失恋、片想いを経験してきたか。どのような悲しい別れに出会ってきたか。こういう諸々のことがすべてあわさって、その人の情緒力を形成し、論理の出発点Aを選ばさせているわけです。
出発点を決めるうえで、宗教や慣習からくる形や伝統も無視できません。たとえば武士道精神には、それを体現するいろいろな形があります。惻隠の情とか、卑怯を憎む心とか、名誉や誠実や正義を重んじる心だとか、精神の形がいろいろあります。
キリスト教やイスラム教にも、それぞれに固有の形がある。そうした文化に由来する形から論理の出発点が決められる場合もある。いずれにせよ、論理の出発点を選ぶのは論理ではなく、情緒や形なのです。(P50〜51)
これはごく常識的な議論だと言へよう。著者は、論理の出發點が假説であることを忘れ、論理の前提(假説を選擇する際の前提)に主觀的な情緒や傳統的な形があることを忘れて、論理を絶對視してそれを獨善的に推し進めてしまふことが、本來の人間らしい生の領域を破壞してしまふことを批判してゐるのである。
▼「情緒と形」とは何か
それでは、「論理と合理」に對置される「情緒と形」とはどのやうなものだらうか。
まづ情緒だが、これはこの言葉によつて私たちが知つてゐる意味そのものである。情緒にも歴史性があり、著者は日本は特に豐かな情緒を育んできたと考へてゐるやうである。形とは傳統に由來する精神の形であり、著者は日本が生んだ優れた精神の形として、惻隠の情、卑怯を憎む心、名誉や誠実や正義を重んじる心を持つ武士道を擧げる。
一般的に普遍的と言へば論理を思ひ浮べることが多いだらうが、本書の面白さは「情緒と形」こそが人間にとつて眞に普遍的な價値としてゐるところである。現代、世界を席捲してゐるグローバリズムについて、著者は實態はアメリカ化であると批判し、多元的に文化を尊重するローカリズムを説くのだが、ローカリズムに共通の基盤となるのも「情緒と形」であるといふ。
世界の各民族、各地方、各国家に生まれた伝統、文化、文学、情緒、形などを、世界中の人々が互いに尊重しあい、それを育てていく。そのローカリズムの中核を成すのが、それぞれの国の持っているこうした普遍的価値です。日本人が有する最大の普遍的価値は、美しい情緒と、それが育んだ誇るべき文化や伝統なのです。(P139)
著者はさらに踏み込んで、
世界は途方に暮れています。時間はかかりますが、この世界を本格的に救えるのは、日本人しかないと私は思うのです。(P191)
と、日本の「情緒と形」が世界救濟の主體となるべきといふ信念を吐露する。
ところで、「論理と合理」ではなく、「情緒と形」を普遍的價値とする論理は、妥當なものと言へるだらうか。それは「情緒と形」が普遍的に通用するものであるかどうかにかかつてゐると言へよう。實は著者の言つてゐることは、人間は情や愛で理屈拔きに解り合へるといふ、日本人ならではのヒューマニズムである。たしかに人間は情や愛で理屈拔きに解り合へる面もあるから、著者の所説は妥當なものであるやうにも見える。しかし、戰爭や權力鬪爭もまた理屈拔きの人間の行動ではないか。殺し合ひや奪ひ合ひや破壞や搾取も、理屈拔きの人間の行動ではないか、といふ疑問も湧く。人間の場合、論理の前提となる主觀が、憎惡や貪慾や破壞や虚無への志向であることもあり得るのではないか。
かうした問ひに對して、著者は、殺し合ひや奪ひ合ひや破壞や搾取は武士道のやうな高邁な精神ではなく、私利私慾に基づくものであつて、「論理と合理」を主張してゐるとしても實態は「情緒と形」を缺いた無秩序である、と答へると思はれる。著者は、論理はこれまで自己正當化のための便利な道具でしかなかつたと指摘する。
美しい情緒は「戦争をなくす手段」になるということです。論理や合理だけでは戦争を止めることは出来ません。これは歴史的に証明されております。古今東西、いかなる戦争においても、当事者の双方に理屈がありました。自己を正当化するために、論理はいくらでも作り出せます。出発点の選び方によって、いかような論理を組み立てることも可能だからです。実際、歴史を振り返ると、論理とは「自己正当化のための便利な道具」でしかなかったことを思い知らされます。(P153)
著者は「論理や合理だけでは戦争は防げません。日本人の持っているこの美しい情緒や形が、戦争を阻止する有力な手だてとなります」(P155)とも述べてゐるが、このやうな發想には國内においては殺し合ひや奪ひ合ひや破壞や搾取を放棄した(少なくとも相當低いレベルまで輕減した)日本人の歴史經驗があるのだらう。著者は、日本人が國内における平和を可能にしたのは、自然と調和する自然觀や異質なものを認める多元的な價値觀であると考へ、それこそが日本による世界救濟の原理だと言ふ。
欧米人の精神構造は「対立」に基づいています。彼らにとって自然は、人間の幸福のために征服すべき対象であり、他の宗教や異質な価値観は排除すべきものです。これに反して、日本人にとって自然は神であり、人間はその一部として一体化しています。この自然観の違いが、欧米人と日本人の間に本質的差異を作っています。日本人は自然に調和して生きてきましたから、異質の価値観や宗教を、禁教令のあった時期を除き、頑なに排除するということはしませんでした。それをいったん受け入れたうえで、日本的なものに変えて調和させてきました。
精神に「対立」が宿る限り、戦争をはじめとする争いは絶え間なく続きます。日本人の美しい情緒の源にある「自然との調和」も、戦争廃絶という人類の悲願への鍵となるものです。
日本人はこれらを世界に発信しなければなりません。欧米をはじめとした、未だ啓かれていない人々に、それこそが、「日本人の神聖なる使命」なのです。(P156〜157)
著者にすれば、日本人はこの人類の財産と言ふべき貴重な平和共存の歴史を無にして、今やグローバリズム(アメリカ化)によつて同胞に對してさへ奪ひ合ひや破壞や搾取を始めるやうになりつつあると感じてゐるに違ひない。著者は、かつて國内に平和を實現した日本の「情緒と形」を再生させ、以て世界を救ふことを望んでゐるのである。それはいいのだが、論理の前提に情緒があるのならば、歐米的な「論理と合理」の前提にも情緒があるはずである。とすれば、著者が言ふやうな自己正當化のための便利な道具として論理を利用しようとする人々、たとへば歐米人は、情緒の部分が缺落ないし私利私慾に目が眩んで捩ぢ曲がつてしまつてゐるのだらうか。それとも、歐米人は普遍的な情緒の聲に耳が傾けられない人々、著者の表現を借りれば「未だ啓かれていない人々」といふことなのだらうか。私たちは歐米人における「情緒と形」と「論理と合理」の關係、また日本人との違ひなどについて、きちんと研究すべきだらう。
▼日本は特別か
著者は、アメリカに追隨する現状の日本の在り方を批判して、次のやうに述べる。
いま、国際貢献などと言って、イラクに戦えない軍隊を送っています。とても賛成する気にはなれません。
なぜなら、そんなことをしても誰も日本を尊敬してくれないからです。「アメリカの属国だからアメリカの言いなりになっているだけ」と思われるのがせいぜいでしょう。それに自衛隊員が気の毒です。世界でもっとも危険な地へ行かされながら、重武装は認められず、オランダ軍など他国の軍隊に守ってもらう、という屈辱的立場に置かれているのですから。
そもそも今のアメリカに、手前勝手なナショナリズムはあっても「品格」はありません。九・一一のテロでかき消されてしまいましたが、京都議定書の批准も拒否、国際人道裁判所の設置にも反対、そして自分の言いなりにならない国連に対しては分担金を滞納さえするのです。日本は、アメリカの鼻息をうかがい、「国際貢献」などというみみっちいことを考える必要はまったくないのです。本気で世界に貢献したいのなら、「イラクの復興は、イスラム教にどんなわだかまりもない日本がすべて引き受けよう。そのために自衛隊を十万人と民間人を一万人送るから、他国の軍隊はすべて出て行け」くらいのことを言えなければなりません。
世界に向かって大声を上げる胆力もなく、おどおどと周囲の顔色をうかがいながら、最小の犠牲でお茶を濁す、という屈辱的な態度なら、国際貢献など端から忘れた方がよいのです。そんなことに頭を使うより、日本は正々堂々と、経済成長を犠牲にしてでも品格ある国家を目指すべきです。そうなること自体が最大の国際貢献と言えるのです。品格ある国家、というすべての国家の目指すものを先んじて実現することは、人類の夢への水先案内人となることだからです。(P177〜178)
日本よ、道義國家たれ。霸道ではなく、王道を歩め。要するに、著者は「日本よ、正義のヒーローになれ」と言つてゐるのである。正義のヒーローには豐かな情緒が必要だが、それだけでは文弱に流れるから、正義のためには戰ふことを辭さない武士道精神を稱揚してゐるのだらう。
日本がアメリカに追隨して不義の行爲に汚れてほしくないといふ心情は理解できるが、著者の提言は現實的とは言へない。日本は著者が空想するやうなスタンドプレーのヒロイズムは演じられないからである。著者は「イラクの復興は、イスラム教にどんなわだかまりもない日本がすべて引き受けよう。そのために自衛隊を十万人と民間人を一万人送るから、他国の軍隊はすべて出て行け」と言つてゐるが、そんな大言壯語が吐けるのも日本が經濟大國であるからであり、そしてそれはアメリカの屬國であることによつて手に入れたものである。戰後の日本が手を汚さずに生きて來られたとすれば、ダーティな仕事はアメリカがやつてきたからである。世界最大の軍事大國アメリカの庇護下で、あたかも平和國家であるかのやうな顏をして金儲けに勤んできた日本の方が、よほど汚いといふ見方もできる。そのやうに考へてくれば、資源もなく、軍隊も持たない日本が、アメリカの庇護の下、屈辱的な立場に甘んじるのは當然とも言へるのである。
なるほどアメリカは手前勝手なナショナリズムの國であり、天下統一の事業を擔へる器ではないやうに見える。利己心が強過ぎるし、他國を統治することが餘りにも下手だ。しかし、ならば日本はどうかと言へば、著者が惡し様に言ふアメリカの屬國に過ぎない。著者はいかなる根據によつて日本に世界を平和にする現實的な力があると言ふのだらうか。
いや、そもそもなぜ國際社會において日本のみが道義國家たり得ると言へるのか。日本もまた、他民族を喰ひ者にし、時には自分たちの精神の形が通用しない他民族に對して殘虐非道な行爲をなした歴史を持つてゐるではないか。同胞に對してさへ、日本人は本當にいつも優しかつたと言へるか疑問である。假に著者が言ふやうに日本がイラクその他に軍隊や企業を送るとして、日本が正義のヒーローとして振る舞ふといふ保證はどこにあるのか。著者の意見が帝國主義的侵略のイデオロギーにならないとなぜ言へるのか。「情緒と形」の押しつけは、「論理と合理」の押しつけに劣らず危險なのではないか。日本人は自然と調和する自然觀を持つてゐると言ふが、日本人もさんざん自然破壞や郷土の景觀破壞を行なつてきたではないか。著者はそれも歐米の文明に染まつた結果と言ふかもしれないが、それでは日本人の主體性はどこにあるのか。
著者の所説は武士道精神の美しい上澄みのところを掬ひ上げた理想主義である。著者のヴィジョンは武士的エリートが世界を統治するといふものだらう。「卑怯なことをするな」といふ論理を超えた無條件の道徳的價値を堂々と提示してゐることは立派である。もし武士道精神によつて本當に人間に殺し合ひや奪ひ合ひや破壞や搾取を止めさせることができるのなら、それは素晴らしいことである。しかし、理想を語るだけではなく、それを實現させるための具體的な見通しも必要だらう。
武士道精神による世界救濟の事業に着手する場合、まづ、日本を支配してゐるアメリカをどうするかが問題になるだらう。アメリカをどうにかできなくて、世界救濟の事業ができるはずがない。アメリカの軍隊を日本からどうやつて排除するのか。アメリカの庇護を失つて、日本は生きて行けるのか。アメリカと對等の同盟關係になつたとしても、その時に日本だけ手を汚さずに生きて行けるのか。根本問題として、日本は資源や食料や安全保障をどうするのか。これらの問題は「論理と合理」によつて考へる必要がある。
また、「論理と合理」の優位を精神の形としてゐる(實態は慾望の道具として「論理と合理」を利用してゐるだけかもしれない)アメリカに、日本人が自然と調和する自然觀や異質なものを認める多元的な價値觀を説いて、彼らは自らの精神の形を放棄するだらうか。歐米人は、あるいは中國人にしても、そんな話には一顧だにしないだらう。日本の「情緒と形」をいかにして世界原理とするのか、具體的な道筋がなければ空論である。理想は必ずしも實現可能性によつて評價すべきものではないが、實現可能性がないならば正直にそれを認めて思想を追求することが必要だらう。
附け加へるなら、著者は戰後日本の經濟至上主義やアメリカ追隨を批判してゐるが、今のやうな日本を作つてきたのは、自民黨であり、それを支持してきた國民である。皮肉なことに、本書を持ち上げてみせるのは自民黨の政治家であつたり、有難がつてくれる購買層は自民黨の支持者であつたりするのだらう。さういふ日本の「保守」の姿を、著者はどう考へてゐるのだらうか。
▼日本人の理想
著者は「日本は正々堂々と、経済成長を犠牲にしてでも品格ある国家を目指すべきです」と言つてゐる。簡單に經濟成長を犧牲にすると言つてゐるが、日本の存立條件を知らないのだらう。著者の言つてゐるやうなことをやつてゐると、經濟成長を諦めるだけでは濟まないのである。文化力も必要だが、經濟力や軍事力がなければ、國家の存立はもとより、著者が期待するやうな日本が世界をどうかうすることなど到底不可能なのである。經濟大國の存立條件は考へずに、經濟大國であることに胡坐をかいて大言壯語することはたやすい。
勿論、たとへ滅びるとしても品格ある國家を目指せ、と主張するのであれば、筋は通つてゐる。だが、ほとんどの日本人はそれに同調することはないだらう。本書はベストセラーになつてゐるが、誰も本氣で讀んでゐるわけではなく、一服の清涼劑として良い氣持ちになつてゐるだけである。日本人が現實から目を逸らして觀念の上で日本は素晴らしいと悦に入るためのファンタジーとして本書は機能してゐるのだらう。
著者は歐米、特にアメリカに「情緒と形」が缺如してゐると見る。たしかに歐米は論理の勝つた文明には違ひないが、問題の核心は歐米云々より人類が市場經濟と科學技術の發展を軸とする近代文明を迎へたといふことにある。傳統文化の規範を超えて個人の利益追求を肯定する合理主義が近代文明の根幹である。利益と慾望の無限の追求が個人と個人、國家と國家の對立を生み、人間と社會と自然の調和を缺いた荒廢を齎してゐるといふのはその通りであるし、さうした近代文明の直接の出發點が西歐にあるのも事實である。日本はそのやうな近代化を主體的に選擇し、うまく適應したのであり、その成功は著者も含めた日本人の自慢であるはずだ。
本書は近代文明の閉塞状況を打開するものとして傳統的規範を提示してゐるが、さうした精神論によつて現代世界の個人エゴや國家エゴや宗教原理主義を超剋することができるとは思へないのである。さうした精神論は、結局のところ、個人は國家や企業に柔順であれといふ日本的なイデオロギー裝置として働くのが關の山だらう。現代世界を批判するのはいい。しかし、さうであるなら、日本人は(恐らく著者自身も含めて)自らに對する反省が足りない。日本人は日本が歩んだ歴史を見据ゑるべきである。むしろ著者が見下してゐるアメリカの方が現代文明やアメリカといふ國の在り方を根本的に批判してゐる人が多いだらうし、道徳的な人も多いと思はれる。日本人は歐米をはじめとする國々を「未だ啓かれていない人々」などと自分が高いところにゐるつもりになつて嘲笑つてゐられるのだらうか。
日本人が持つてゐる自然と調和する自然觀や異質なものを認める多元的な價値觀によつて、「論理と合理」を絶對視する一神教的世界觀による現代世界の對立を緩和し、止揚へと到る合意形成の場を提供し、一定の役割を擔へるならばそれは結構なことである。現代文明の超剋は、人類が取り組むべき課題である。その際、「情緒と形」の面からも世界に働きかけて合意を形成して行くことが必要であるが、「論理と合理」と「情緒と形」を綜合して新しい文明を築き上げて行くことになるだらう。
(平成18年9月2日)
高坂 相
三浦展『下流社会〜新たな階層集団の出現〜』
■三浦展は、「下流社會」や「かまやつ女」などキャッチーな現代用語を生み出してゐる社會學者、マーケティング・プランナーである。郊外のニュータウンを對象とした郊外社會學といふ大變興味深い研究も展開してゐる。消費・文化・都市研究のためのシンクタンク、カルチャースタディーズ研究所主宰。
光文社新書、平成17年9月20日、定價780圓(税別)
▼「下流社会」とは何か
下流社會とは既存の上流・中流といふ言葉に引つ掛けて作られた著者の造語であるやうだが、1970年代〜90年代に日本が實現した一億総中流意識の平等社會から分化した、新しい階層のことである。かつての日本には自らを中流と見做す人々は6割以上ゐたが、現在急速に中流とは言へない階層が擴大しつつあり、著者はやがて上流15%、中流45%、下流40%といふ割合の階層社會が到来するだらうと豫測してゐる。困窮生活者を表す下層ではなく下流と言ふのは、中流階層よりも所得や能力においては劣るとは言へ、物の所有や消費生活といふ觀點から見て、貧困と呼ぶのは相應しくないからである(潤澤に食べるものがあり、パソコンやDVDを樂しんでゐる生活を貧困とは呼べないといふことである)。下流社會の特徴は、貧困ではなく、何よりも意欲の缺如であるといふ。
「下流」とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。(P7)
著者によれば、下流階層が擴大していく時代を前にして、「若い世代の価値観、生活、消費は今どう変わりつつあるのか。それが本書の最大のテーマである」。
▼下流の人々
下流の人は「所得、コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低い」が、現代文明の豐かさの中でそれなりに滿たされてしまつてゐる人々でもある。いはゆる負け組と重なるが、竸爭から落伍したといふより、竸爭心そのものを持たないところに特徴がある。フリーターやニートは、下流の中核に位置する。サブカルチャーも下流との關はりが深く、オタクも下流に分類されてゐる。本書では現代女性論も展開されてゐる。女性は、かつては男性優位社會によつて抑壓されてゐるとして被害者の會的な共同戰線を張ることができたが、現在は女性も階層化し、社會的に分裂しつつあるといふ。女にも勝ち組、負け組(負け犬)がゐるわけである。
下流の人々には「個性」「自分らしさ」といふ言説を信じ込んでゐる人が多いと著者は指摘する。經濟が右方上がりの時代は全體のパイが大きく、末端まで分配することが可能であつたが、經濟成長が見込めなくなつた社會では少ないパイをめぐつて竸爭が起こることは避けられない。さらにグローバル化も竸爭と階層化を促す。現實はそのやうなものであり、竸爭しなければ階層を滑り落ちていくのに、下流の人には「竸爭するより自分らしく生きることが大切」といふ、文化人やマスコミが説く建前を本氣で信じてゐる人々が多いやうである。しかも、さういふ人々に限つて、自分は何かができると(根據なく)思つてゐるといふ。
▼問題の所在
本書を讀んでゐて少しわかりにくいのは、經濟格差の問題と心理學の對象とすべき問題とがはつきりとは分けられてゐないことである。下流の人はコミュニケーション能力が乏しく性格も暗いといふが、それならば下流問題とは心理學的要因が主で、經濟問題は結果的にもたされるものなのではないかといふ疑問が湧く。貧乏でも明るくコミュニケーション能力が高い人は世界中いくらでもゐるからである。下流の人とは、竸爭心を剥き出しにする必要がない豐かな社會の中でモチベーションが低下し、頑張れないタイプの人と考へた方がいいのではないか。さうだとすれば、著者は階層化を招いたとして政府の新自由主義的な構造改革路線を批判してゐるが、このやうな人々の増加はむしろ現代文明の必然であつて、政治の責任ではないといふことになるはずである。と思つたら、
能力があっても意欲がない子供もいるだろうという反論もあり得るが、今日の教育社會学は意欲もまた階層が規定すると言っている。(P268)
らしい。この言が正しいとすれば、下流問題は經濟問題でもあり、政治問題でもあるといふことになる。この點については最後に考へたい。
本書はいくつかの系列の言説から成り立つてゐる。理解のためにここで簡單に整理しておかう。第一に、階層化の現状と階層別の人間類型とそれぞれの行動パタンの客觀的な分析がある。第二に、それを前提としたマーケティングの觀點からの分析・提言がある。第三に、下流層の擴大といふ社會状況に警鐘を鳴らし、それに對應した政策提言を行なつてゐる部分がある。以下では、下流問題とは何なのかといふテーマを視野に入れつつ、第三の政策論の部分について考へようと思ふ。
▼下流對策
著者は、階層化によつて國民的一體感が失はれて、他の階層に關心や共感を持てなくなる(特に上流・中流の人々が下流・下層に對して關心や共感を持てなくなる)社會的分裂が到來することを危惧し、これから増えていくであらう下流の人々の行く末を心配してゐる。
自分らしさが重要だと言いながら、努力もせずにぶらぶらしている中途半端な人間が、5年、10年後、30代、40代になったとき、どうなるか、非常に問題視されている。
もちろん、30代のフリーターの増加はあくまで過渡期であり、さすがに40代になるまでには中途半端な人間は淘汰され、最終的には自分らしさを持ち、かつその自分らしさを武器に仕事をして稼ぐことができるような人が残っていく可能性も、ないことはない。そのとき、日本は、もしかすると非常に多様で豊かな文化大国になるだろう。
ただし、生存競争に敗れた人たちが、その後、ベストを尽くして夢を追ったことへの満足感を得ながら、なんらかの定職について、下流ながらも楽しく安定した生活を営むことができるか、あるいは、山田昌弘が懸念するように、夢敗れたことの敗北感にさいなまれながら無気力に生きるしかない本当の下層として社會の底辺に固まってしまうか。それが今後の日本の大きな問題であろう。(P263〜264)
そして、本書を讀む限りでは、著者は下流の人々の將來に悲觀的なやうである。著者はこのままでは日本が階層社會になつてしまふと危惧し、「機會惡平等」の政策を提言する。新自由主義者は、これまでの日本が取つてきた結果平等主義を批判し、能力と成果に應じた結果不平等型の成果配分をすべきと唱へるが、著者はかうした勝ち組的成果主義を社會的分裂を結果するとして批判する。また、その對案として出される、完全な機會均等主義にすればいいといふ意見にも、著者は反對する。なぜなら、完全機會均等主義はすべてが個人の能力に帰せられる過酷な竸爭社會をもたらす結果的になるからである。それらの檢討を踏まへて、著者は結果の平等を主張するわけではないが、「機會惡平等」を唱へるのである。
▼機會惡平等
機會惡平等とはいかにもマーケティング・プランナーらしくジャーナリスティックな受けを狙つた造語であるが、下流對策を自己決定・自己責任に任せる完全機會均等主義のレベルに止めず、社會が積極的に關與して下流の人々に下駄を履かせて階層上昇の機會を與へるアファーマティブ・アクションである。具體的には、下流の人々の大學合格の得點を下げること、學費無料化、獎學金制度の充實、優れた教育を受けられる環境の支援などである。アメリカにおける黒人政策、日本における同和政策に似たものと思はれる。これについて少し考へてみよう。
階層問題は政策的な課題であるのは事實である。現實問題として、下流の人は所得が低く、所得と意欲の無さのスパイラルによつて學力も低下していく。下流の人は經濟的・ライフスタイル的・パーソナリティ的に戀愛や結婚がし難いために、少子化とも關聯性が深い。現代の日本社會では階層は固定して世代を超えて受け継がれる傾向が生じてをり、このままでは日本は二極化して階級社會になる可能性が高い。そこからさらに貧困状態に陥る下層が生まれてくることにもなるだらう。結果として、格差問題は治安問題にもつながつていく。もし下流の擴大ひいては下層の擴大が豫測され、それを政策的に何とかできるのならば、するに越したことはないだらう。それは社會秩序を保つためにも必要であるし、それだけではなく、人間は個人としてのみ生きるものではなく、社會が成員のことを配慮する共同體としての側面を備へてゐることは當然のことだからである。その意味では、政策的に社會の成員を支援することを否定すべきではないし、必要かつ意義のある對策ならば取られて然るべきである。大學合格の得點を下げるのはどうかと思ふが、學費無料化、獎學金制度の充實、優れた教育を受けられる環境の支援などは、導入していいだらう。
ただ、常識的に考へて、個人に對して社會が何もかも面倒を見るわけにはいかないので、社會が手を差し伸べるべき範圍と自己責任の原則を適應すべき範圍とを分ける必要はあるだらう。また、機會惡平等主義の政策を取つた場合に、それが自立的にやつていける人々の自由な活動を沮害するものになるとすれば、問題である。これからの日本は、優秀な人間が持てる能力を存分に伸ばせる社會であるべきである。そして、自立的にやつていける人々の自由な活動は制限しないといふことであれば、機會惡平等政策の下でも竸爭は生まれ、格差は生まれるだらう。それでも、意欲を缺く人に社會が無理やりにでも機會を與へることが下流問題のかなりの程度の解決策になるといふことであれば、意義があると言へよう。附け加へれば、さうした政策を實行する場合に、過剩な逆差別になることは避けなければならない。經濟的な強者に弱者がたかり、税金を喰ひ物にすることを當然とする風潮に墮さないやうにすることが必要である。また、下流支援の政策は必ず利權の温床になるので、それを監視する制度作りも同時に必要だらう。下流支援の目的と意義をきちんと説明する論理を構築して、制度を透明にしなければならない。
▼ニヒリズムにつける藥
以上、本書の政策論に重點を置いて讀んできたが、實は人々が意欲を失つてゐる状況に對しては、制度面だけではなく、本當は若者たちが意欲を持てる社會であることこそが必要なのである。豐かさと平和が實現してしまへば社會の目標がなくなり、人々が頑張る動機を失ふのは必然といふ見方もある。たしかに無理やり人爲的に目標を設定して頑張らせるやうなことは異常であるし、一部の保守派のやうに失はれた目標の代償(隱蔽)としてナショナリズムを鼓舞したりするのは有害無益でしかない。しかし、實際には、豐かさと平和が實現した社會でも大切なものや爲すべきことはあるし、さうしたことを學べないこと(すなはち大人が教へないこと)、志が持てないことが問題なのであつて、それに比べれば經濟格差など何ほどのものでもない。
次世代や將來への悲觀を語る人は、實は自らが生きる價値を失つてゐる人であるとも言へよう。若者に頑張れといふ社會的壓力をかけたいのだが、何を頑張れと言つていいかわからないのである。意欲がないのが下流だと指摘する著者にしても、ソフトな保守意識と、漠然とした平等主義の感性と、結局のところ人間の問題は經濟問題に帰着するとする人間觀しか持つてをらず、「若者よ、この價値のために意欲を持て」とは説けないのである。幸福の基準が經濟にしかないのだ。だから元兇を經濟格差に求めるしかないのであるし、議論がマーケティング論と政策論止まりなのはそのためである(尤も、下流の人々を心配し、機會惡平等主義を説いてゐるのは、著者にとつて人間が價値の對象であるといふことを示してゐる)。
意欲を失ふから下流になり、下流になるとさらに意欲を失ふといふ惡循環構造には經濟格差の問題が關はつてゐるやうにも見えるが、下流問題を心の問題として捉へる視點が必要だらう。社會學、とりわけマーケティング系の社會學には、消費者の意識を広い意味での下部構造に規定されるものと見做して、統計學的に人間を類型化してレッテルを貼り、現代社會論や文明論を捏造するといふ性格があるが、概してどこまで實態を反映してゐるのかわからないといふところがある。それは本書も例外ではない。マーケティングが商賣として成り立つてゐるところを見ると、物を賣るための戰略を立てるといふ點ではそれなりに有效なのだらうが、本書の人間の類型化は表面的な流行のレベルであり、恒常性があるものではない。何よりも人間はそこまで經濟に決定されるものとは思へない(經濟的要因を輕視すべきではないが)。
私が下流の人々に對する政策を認めるのは、それは現代社會のソフトなニヒリズムの拔本的解決になるものではないにせよ、社會が手を差し伸べれば何とかなる人を見棄てることはないと思ふからである。當面の現實的施策として援けが必要な人に對する「自立」支援を、有效な範圍、かつ社會に餘裕のある範圍で行なふことは、意味があると思ふ。同時に、豐かさが實現した社會でも大事なことや爲すべきことはあることを次世代に傳へていくことが必要である。神ならざる人間には萬能の藥はないが、經驗や哲學によつて手にした價値觀を次世代に手渡していく努力をしていくことである。そして、誰しも自分自身として生きなければならない部分が必ずあることも、人間論として傳へていくことが必要である。
(平成18年7月12日)
■三浦展氏のサイト『culturestudies』
香山リカ『ぷちナショナリズム症候群〜若者たちのニッポン主義〜』
高坂 相
■香山リカは現代社會批判の著書を多數刊行してゐる精神科醫である。昨今は愛國心批判を大きなテーマにしてゐる。帝塚山學院大學教授。
中公新書ラクレ、平成14年9月10日、定價680圓(税別)
▼ぷちナショナリズムとは何か
本書は、サッカーのサポーター、YOSAKOIソーラン祭り、日本語ブームなどに見られる大衆現象や、新自由主義的な經濟思想、新保守主義的な安全保障論・改憲論に見られる現實主義的・合理主義的な言論などを材料に、昨今の日本の右傾化した社會状況について批判的に分析したものである。タイトルに「症候群」とあるやうに、著者は現代日本の若者の行動をぷちナショナリズムといふ社會病理現象として分析してゐる。
たしかに今の日本社會は、とりわけ21世紀になつてから顕著だが、ナショナリズム的な言説が公然と語られるやうになつたのは事實である。それらは世界の常識を述べてゐるだけで、それまでの日本が特殊だつたに過ぎないといふことも多いのだが、少し前までの國家を肯定的に語ることがタブーであつた時代とは隔世の感があり、變化に戸惑ふ人がゐるのも頷ける。本書もさうした日本社會の變化に對する反應の一つと言へよう。
著者は本書において日本の右傾化した社會状況に對する違和感を精神病理學の圖式を使つて分析しようと試みてゐるのだが、その分析に使はれるのが「エディプス・コンプレックス」と「切り離しのメカニズム」といふ概念である。そして分析の結果、著者は現代日本の右傾化した状況を「ぷちナショナリズム」(著者の造語と思はれる)と診斷する。この造語には對象を矮小化する意圖もあると思はれるが、著者の日本社會の精神分析には首肯できるところもある。
著者はストレートにナショナリズムと呼ばずに、ぷちナショナリズムと呼ぶわけだが、ぷちナショナリズムは一般的なナショナリズムとどう違ふのか。著者によれば、現代日本の若者のナショナリズム現象を見ると、「ニッポン大好き」と言つてはゐるが、國家に同一化し、それをアイデンティティの核にして外部(や内部)に排除すべき敵を作り上げるといふやうな一般的なナショナリズムの行動は見られない。それは從來の、また他國のナショナリズムと比較すると質的に違ふものであり、ナショナリズムの歴史的・社會的な意味にも無自覺な非常に輕い擬似ナショナリズム行動である。そのやうな觀察から、著者は現代日本の若者のナショナリズム現象をぷちナショナリズムと命名するのである。そして著者は、ぷちナショナリズムの背後には特殊な形でのエディプス・コンプレックスの在り方が關係してゐるのではないかと推定する。
▼エディプス・コンプレックス
エディプス・コンプレックスとは、言ふまでもなくフロイトが創始した精神分析學の中心概念である。簡單に言ふと、幼兒が母親に向けてゐる性愛をめぐつて父親とライバル關係になるが、幼兒の慾望を禁止する父親の權力によつて幼兒の全能の慾望の世界が限定されることを通じて、自我(や超自我・無意識)が形成されていくといふ假説である。幼兒期のエディプス葛藤は自我の形成とともに克服されるが、長じてのちも權威や權力に對する反撥や葛藤として繰り返し現れるといふ。
現代日本の若者には父親に對する葛藤が餘り見られないのが特徴だといふ。「お父さん大好き」と公言し、二世が親の七光を恥ぢることもなく、親のコネを使ふことにも葛藤がない。このやうな心理にはエディプス・コンプレックスの不在といふ事態があることが推測されるといふ。現代日本の若者が葛藤なく「お父さん大好き」といふ言葉を發することができるのは、エディプス的な父親體驗がないことを表してゐるといふのである。
そして、このやうな父親に對する葛藤のなさは、若者が何の屈託もなく「ニッポン大好き」と叫ぶぷちナショナリズムにも通じると著者は考へる。つまり、國家に對する複眼的な見方や姿勢を持たずに(たとへば國家の恐ろしい顏を全く見ずに)、無自覺・無反省に「ニッポン大好き」と言つてゐるのではないかといふことである。言ふならばそれは國家體驗のない國家主義であり、ぷちナショナリズムといふ所以である。
實はもともと父權不在の日本の家族構造ではエディプス・コンプレックスは成立しないといふ説があるといふ。著者はその可能性も否定せずに保留しつつも、その一方で日本には特殊な形でのエディプス・コンプレックスがあるのではないかといふ假説を暗示する(ただし、著者はこの問題を暗示するに留まり、明確な説明はしてゐないのだが)。
▼「切り離し」のメカニズム
精神分析學の假説に基づくならば、エディプス・コンプレックスが成立しない状態、あるいはエディプス・コンプレックスが歪んだ形で機能してゐる状態では、自我を十分に發達させることはできない。そして自我を十分に發達させられなかつた者は、抑壓やストレスに對する戰略として、「分裂」と「解離」といふ「切り離し」のメカニズムを取ることになるといふ。この邊の説明は明確ではないのだが、私の解釋も交へて著者が斷片的に語つてゐるところを亂暴に纏めてしまへば、日本社會はエディプス構造が不在であるか、禁止や檢閲を行なふエディプス的權力は存在してゐるとしても、正常な抑壓によつて個人がアイデンティティを主體化する機會を與へない歪んだ構造になつてゐる。それによつて自我を正常に確立できなかつた者が、弱い自我にとつて處理し切れない抑壓や社會的な壓力に反應して、現實適應のために自我から切り離してアクティングアウトする心的機制が「切り離し」である、といふことらしい。
このメカニズムをぷちナショナリズム現象に當て嵌めれば、日本人としてのアイデンティティを自我の構成要素として形成する過程を與へられなかつた若者たちが、國家に對する格鬪を乘り超えた上で自覺的に選擇した複眼的な愛國心ではなく、右傾化の時代壓力を受け、歴史的文脈や自我から切り離した行動として、「これが君のアイデンティティだよ」と差し出された日の丸を振つてゐるといふ圖になるわけである。この時、ナショナリズムは決してアイデンティティを構成してゐる要素ではなく、切り離しのメカニズムによつて右傾化の時代に外面的に適應してゐるだけであり、違ふブームが來ればその時はまた自我から切り離した行動として差し出された別の何かに乘るだけとも考へられるが、著者は歴史から切り離された無自覺なぷちナショナリズムは政治に利用されかねないとして警鐘を鳴らすのである。
▼合理主義への違和感
著者は最近勢ひを増してゐる新しいタイプの合理主義に對しても、切り離しのメカニズムと關聯附けて、違和感を表明する。新自由主義的な經濟思想や新保守主義的な安全保障論・改憲論などに見られる現實主義的・合理主義的な言論もまた、ぷちナショナリズムと同樣の切り離しのメカニズムと通底すると考へるのである。たとへばアメリカとの軍事同盟を基軸に集團的自衞權の行使を認める改憲をせよといふ政治學者の村田晃嗣の主張を引いて、著者は次のやうに述べる。
この主張に対して、村田と同じ地平――コスト感覚などを大切にする現実主義的な立場――で反論を試みるのは、大変にむずかしいことであろう。「個別的自衛権より集団的自衛権のほうが安上がり」というのも「日本が近隣諸国の軍事的紛争に巻き込まれる可能性は少なくない」というのも、たしかにその通りだからである。(P114)
かうした現實主義・合理主義に對して、著者は確乎とした反論の根據を持つてゐるわけではない。理屈としては反論できないとさへ言つてゐる。ただ、それらが餘りにも歴史や人道に對する葛藤を持たない(自我から切り離してゐる)ことに違和感を表明するのである。そして著者は、非人間的な現實に對する批判の根據は、「従来、良心とか矜持とか呼ばれてきたことの次元に属するのかもしれない」(P118)と述べる。現在優勢になりつつある現實主義・合理主義に對して、著者が良心や矜持といふ恣意的な、ある意味において不合理な觀念論(道徳論や心情論)しか出せないことがわかる。
國家に軍事的な備へが必要といふのは自明の理であるから、普通の理性と知能を持つてゐる人間なら、それについては反論できない。しかし、戰後民主主義的知性は、軍事の問題を(状況への單なる適應としてではなく)主體的な課題として正面から取り組むことはまだできずにゐる。アメリカは軍事的に最強である、ゆゑにアメリカと同盟を結ぶといふ、強い者につく合理主義に對して、戰後民主主義的知性は、アメリカは樣々な敵から狙はれてゐるからアメリカと組んでゐると日本も戰爭に卷き込まれるといふやうな、防衞問題の本題からは目を逸らした批判ぐらゐしかできない。現實主義的・合理主義的な安全保障論・改憲論に對しても、日本がかつてアジアにしたことを忘れてはならないなどと、中韓のナショナリズムや軍擴や侵略行爲は見ぬふりをして違和感を表明してみせるぐらゐが關の山である。新世代の現實主義・合理主義に對する戰後民主主義の批判的言辭は、戰後的なタブーが消滅してしまつた現代、すでに有效性はなくなつてゐるのである。著者は左翼の市民運動家やマスコミほど幼稚なことは言つてゐないが、問題を正面から受け止めてゐないことに變はりはない。
▼日本の歪んだ權力
本書の分析は首肯できるところもあるのだが、著者の考察が餘りにも中途半端であり、結局のところ進歩的文化人の末裔であるらしい著者の負け犬の遠吠えに終はつてゐる。とは言へ、現代への違和感といふ點においては理解できるところがあつたので、その部分を中心に論じてきた。ここで少し本書のテーマを發展させて、私の考へるところを述べよう。
日本社會には禁止や檢閲や命令を命じる權力はあるが、エディプス・コンプレックスが正常に機能せずに歪んだ形で働いてゐるといふのは、たしかに思ひ當たるところがある。日本社會は、正常な抑壓によつて個人がアイデンティティを主體化する機會を與へずに、現實への適應のみを命じる構造になつてゐるやうに思はれる。正常な抑壓によつてアイデンティティを主體化する機會を與へないのは、一種のネグレクトである。アイデンティティを確立できなかつた人間は、現實へ適應するために、自我から切り離した行動をすることになる。
このやうな構造は、昔からさうだつたのかもしれないし、戰後ないしは近代からさうだつたのかもしれない。假に戰後のものだとすれば、維新以來、自分たちの土着のアイデンティティを否定して國際秩序への外的適應のみに追はれてきた日本人が、敗戰後、國家や家父長制との格鬪によつて自我を形成する過程すらも奪はれ、背後にあるアメリカといふ權力の存在も(江藤淳の言ふ檢閲によつて)隱されたことに由來するだらう。
自我形成の過程で格鬪すべき對象を見えなくし、主體的なアイデンティティの確立は阻みながら、現實への適應だけは命じる戰後的權力空間に培養されたパーソナリティが、ぷちナショナリズムであり、人間不在の合理主義であるといふことになるのだらう。現代日本には、若者だけではなく、政治家・官僚・經濟人または保守知識人などにも切り離しのメカニズムによる現實適應や合理化と思はれる言動が見受けられる。それは結局、アイデンティティや歴史や道徳や心情の問題を切り離して、現實適應を優先する態度から來るものだらう。
實は保守思想では、道徳と政治の二元論といふ言ひ方で「切り離し」の正當化を行なつてきた。ただし、この場合は片方のアイデンティティや歴史や道徳や心情といふ不合理な部分はしつかり保持されてをり、人間的な領域を前提とした上で現實主義的・合理主義的に選擇するといふ考へ方を取つてゐる。著者がさうした思想の機微をどこまで理解してゐるかわからないが、現代日本の新自由主義や新保守主義に見られる、差し出された現實に適應してゐるだけではないかと思はれるアイデンティティなき合理主義に著者が違和感を覚えてゐることは、私にも理解できる。たとへば近年、政治家・官僚・經濟人などが不祥事を起こした場合、一應世間向けに反省はして見せるが、本音としては「合理主義的に自己利益を最優先しただけなのに何が惡いのか理解できない」といふ樣子を見せる人間が増えてきてゐる(最近は自らの合理主義に開き直る人間も出てくるやうになつた)。あるいは新保守主義の合理主義的論理にしても、何の葛藤もなく現實に適應してゐるだけで、他國に從屬したくないといふ不合理な感情を缺落させたものかもしれない。
著者は言つてゐないが、左翼サイドの「切り離し」のメカニズムも指摘しておかなければ公平とは言へないだらう。軍事の問題が存在しないかのやうに平和主義を主張したり、中韓のナショナリズムや軍擴や侵略行爲は見ぬふりをしてアジアへの罪惡感を語つたりするのも、(政治的な確信犯は別として)自ら主體的に考へず全體の雰圍氣に同調してゐるだけだとすれば、近代人としての自我の統合がなされてゐない分裂や解離の行動と言へるだらう。
▼著者の立場
すでに述べたやうに、本書における著者の考察は極めて中途半端であり、自らが提示してゐる日本人の自我形成不全の問題と取り組むことを囘避して、ぷちナショナリズム批判に問題を矮小化してゐるやうに見える。ぷちナショナリズムを批判する著者の立脚點は次のやうなものである。著者は「『自己決定』『自己責任』ということばが、どうしても好きになれません」(P179)と枕してから、次のやうに述べる。
それぞれの「個」が日本人としての誇りを持ち、生まれた国・ニッポンを愛して何が悪い、といういまのぷちナショナリズム的な言説や、それを認める知識人たちにも、私は強烈に違和感を覚えます。「個」であること、「個の意思」について発言したり選択したりすることは、一般に考えられているよりずっとむずかしいのです。「私は、私のことばで語っている」と思い込んでいても、だれかにそう語らされているだけだった――。そういう事態を避けるためにも、私たちはもっと「自己決定」「個の時代」ということばを慎重に扱われなければならない。そして、だれかが「個の時代のぷちナショナリズム」の危険性についても、「決めるのはあなたまかせ」としないで指摘しなければならない。そう考えて、この本を書くことにしました。(P180)
平たく言へば、「おまえたち愚民は自分の意思で行動していると思っているつもりだろうが、誰かに操られているのだ」と言つてゐる。しかし、著者は現代日本人の社會病理を指摘しながらそれと正面から取り組まうとしてゐるわけではなく、自我が未熟な(と著者が診斷する)若者たちに對して批判意識を持てと遠囘しに説教してゐるだけである。だが、自我の未熟な人間がどのやうにして批判意識を持てるやうになるのだらうか。批判意識を持つためにはしつかりとした自我が必要だらうが、それはどのやうにして形成することができるのか。實際には著者はあるべきエディプス構造を説くべきなのであるが、言論人として、大人として、責任ある態度を取つてゐない。著者は現實を切り離した地平で、ぷち戰後民主主義のぷち進歩的文化人としてぷち啓蒙主義を説きたいのだらうか。本書を讀んで「生まれた国・ニッポンを愛して何が悪い、といういまのぷちナショナリズム的な言説や、それを認める知識人たちにも、私は強烈に違和感を覚えます」と「語らされているだけ」の人間を生産したいわけではあるまい。
▼現代といふ時代
現代日本人の問題は、自分が何者であり、どこから來てどこへ行かうとしてゐるのか、見えない時代であるといふところにある。これはグローバル化する世界に共通する普遍的なテーマであるとともに、日本の場合はその上に本書が論じてゐるやうな特殊な社會構造上の問題が重なつてゐるといふことだらう。ぷちナショナリズム現象とはアイデンティティを持たない人間のアクティングアウトであり、自分探しの慾求を群衆に同化することで解消してゐるといふ部分はあるのかもしれないが、父親的なるものからネグレクトされてきたことでアイデンティティを確立できなかつた若者たちが、無自覺に日本ブームに乘つてぷちナショナリズムに躍ることを、烏合の衆と嗤つてどうなるものでもない。
たしかにアイデンティティ形成の戰ひを通過してゐない弱い自我に國家の物語を差し出したとしても、自我から切り離された表面的な適應としてのぷちナショナリズムにしかならないことは十分に考へられる。教育の問題としてどうするかといふことを考へなければならないのだが、個人の問題としては、自分探しを群衆に同化することで解消するのではなく、NPOやNGOとして自分探しをしたり、國際關係や環境問題を勉強したり、歴史や傳統を學んだりと、樣々ではあらうが、個人として志を持つて自分探しの努力と苦勞をすることが必要だらう。尤も、ぷちナショナリズムに乘つてゐるやうに見える人々にしても、個々の人間を見ればそれぞれ個別に自分探しをしてゐるに違ひないが(社會的連帶の乏しい日本社會において、他人とのつながりを求める若者たちの慾求そのものは否定すべきではない)。
最後に、ナショナリズムに對する私の考へを述べておく。自然な感情としての愛國心は否定することはないが、體制イデオロギーとしてのナショナリズムは不要であるだけではなく、有害である。政府やマスコミや政治黨派が大衆操作を目的として煽るナショナリズム(だけではなくすべての體制・反體制イデオロギー)に乘つてはならない。國といふものの多面性を認識し、愛國心は公に奉じる普遍的なものであると同時に私情でもあることを認識して、盲目的な愛國心は國を危くする亡國心にもなり得る(盲目的な平和主義が國を危くするやうに)といふことを辨へた上で、秩序や自由や人權のために國家を運營することが必要である。
本書は右傾化する時代状況に對するエディプス的な葛藤から書かれたものと言へるだらうが、普遍的な思考ができない日本知識人の問題點を示すものにもなつてゐる。
(平成18年6月25日)