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論泉 RONSEN

名著再読


平成18年2月18日

小平邦彦『怠け数学者の記』

怠け数学者の記

岩波書店、1986年5月
岩波現代文庫、2000年8月(写真は岩波現代文庫版)

■著者紹介

著者の小平邦彦氏は東京生まれの数学者。生年1915。数学界のノーベル賞とも目されるフィールズ賞を日本で始めて受賞したことで名高いが、わが国の教育、特に数学教育に対して積極的に提言・批判されたことでも有名。没年1997。

■内容紹介

四部構成。

第一部は主に数学とその周辺の話。著者が考える数学というものの印象の披瀝から、物理学と数学との関連、学術交流の話、と続き、最後に、進化論からのアナロジーや脳の構造を前提に展開される科学技術と人間の進歩との関連についての独特の考察が披露されている。

第二部は一転、教育論に移る。日本の詰め込み型教育、アメリカで起こったNew Math運動(集合論を基礎にした初等数学教育の展開を目指す運動)双方の教育効果について疑問を呈し、その背後にある「子供を縮小化した大人と捉える偏見」を批判するとともに、子供のそのときどきの能力に応じた傾斜型の教育カリキュラムの必要性を主張している。

第三部は自らの人生回顧が中心。大学時代の話、訪米当初に英語が出来ず苦労した話、自らを招待してくれたワイルその他の歴史に名を残す学者たちとの交流の話などが述べられている。

第四部は「プリンストンだより」。訪米時代に聖子夫人と交わされた書簡の内容が紹介されている。

▼内容解説

本書は数年前に惜しまれつつ亡くなられた数学者・小平邦彦氏のエッセイ・講演録・対談録・書簡・論考などが収められた一冊である。自らを「ナマケモノを理想とする怠け者」とする著者のエッセイや講演録・対談録にはところどころにユーモアがちりばめられていて頗る読みやすい反面、教育問題に対する筆鋒はきわめて鋭く、そのユーモアと鋭さの対称に、詰め込み型教育に対する著者の危惧の深さが覗える。まずこの点に触れる。

著者の教育論はある意味シンプルで、二つの前提、すなわち、「子供は大人が一様に縮小したものではなく、その能力のうち在る面では大人に劣るが、ある面ではむしろ大人より優れている」という事実と、「基本的な計算や国語の作文・読解のような“大人になってからでは体得するのに難しい分野”がある」という事実から、初等教育では、そのときどきにおける子供の能力に適した分野・大人になってからでは体得するのに難しい分野に傾斜したカリキュラムを組むべき、という結論に至るものである。

たとえば著者は理系学者であるが、まだ原理理解力に乏しい小学校低学年で理科を教える必要性を否定する一方で、言語吸収能力が優れている小学校低学年期にはむしろ文系科目である国語を重視した教育カリキュラムを組むべき、と主張する。

このように、子供の能力・時期を基準とする姿勢は著者の教育論にあっては終始一貫した公平さが保たれており、論に強い説得力を付与している。同じく教育に関する著者の批判はNew Mathと呼ばれる、集合論を基礎とした初等数学教育を推進せんとする運動にも向けられるが、その筆鉾は、教育的弊害のみならず、「現代数学の基礎に集合論がある」という大人の理解を縮小してそのまま子供に押し付けようとする無知・無理解をも排撃するものであり、先の理科教育批判と底を通じるところがある、といえよう。

また、著者は、現行の数学教育における体系的な初等幾何教育の欠如を指摘していて、これはおそらく著者自身の数学理解において幾何学的直観が果たしている役割の大きさを踏まえてのことだと推察されるが、同じような指摘が多くの著名な学者(たとえばノーベル化学賞を受賞した福井謙一氏がそうであり、ことの顛末は『大人のための算数練習帳』〔佐藤恒雄、講談社〕に載っている)からも為されている事実は付記に値する。

また、本書では、「数学理解は論理的というよりは感覚的なものである」とする、著者のユニークな数学観が紹介されている。著者はこの数学理解の源泉となる感覚を「数覚」と名づけ、たとえばある公式なりを学ぶ際にその証明に取り組むのは、その論証の正しさを確かめるためではなくて、証明を通じて公式の感覚的理解(すなわち「数覚」)を養うために他ならない、と述べ、ひとたびその公式に対する感覚的理解が養われたなら、証明自体は忘れてしまってかまわない、と述べる。

と書くと、なんだか著者が論証自体を軽視しているような印象を受けるが、一流の数学者である著者が論理を軽視するはずはなく、実際に、大学教育で用いられる著者の解析学の書は、その論理的なくどさで有名である。ならば、著者の言いたいこととは何か。私が思うに、著者の言いたいのは、理解とは論理ではなく実践である、ということであろう。それは、消極的な意味でとらえれば人間の論理展開能力が持つ本質的欠陥の認識とそれを補完する感覚の不可欠なることの認識であり、このことは、くどくどと説明するよりは、本書からの引用を持ってすれば足る。

……ヒルベルトの幾何学基礎論では、「点」、「直線」、などは意味のない無定義語であって、「鯨」、「豚」、などで置き換えてもいっこうに差支えないということになっていますが、われわれが、たとえば「三角形の内角の和はニ直角に等しい」という定理を証明するときには、やはり三角形を紙上に描くかまたは頭の中で想像しているのであって、その代わりに三頭の鯨と三匹の豚の絵を眺めていれば、証明は不可能でしょう。(p164)

あるいは、「実践的」を積極的な意味でとらえれば、それは、数学的実在の存在とそれを捉えるべく感覚の不可欠なるを説いている、ということになる。

数学を理解するには数覚によってその数学的現象を感覚的に把握しなければならないのであって、論理だけではどうにもならないのである。(p24)

著者にとって、論理は、数学的実在を捉えるための必要条件であるが十分条件ではなく、論理は、数覚を磨くための手段・理解の事後的保証とはなるが、決定打とはなりえない。決定打はあくまで「数覚」に他ならないのである。

この論理の十分性を認めない姿勢は、本書第一部“科学・技術と人間の進歩”の中で述べられている平和と人間理性に対する見方、すなわち、「平和にとって理性とは必要不可欠であり尊重されなければいけないが、他方、事実としては人間理性は本能に従属していていてどうも信用できない」、という認識と相通じているのであるが、それは同時に、著者自身の思想態度が合理主義のようでいて根っこのところでは合理主義とは一線を画するものであることを示唆している。並外れた知性の持ち主でありながら、理性の十分性は否定する。この点こそが、教育論に見られるような著者のバランス感覚・人間味あふれる見方の根底であろう。とまれ、著者の言う「数覚」の存在は、我々がもつ数学ないし数学者のイメージを根底から覆すものであり、もっといえば、論理を人間から遊離したものとして捉える我々の見方の偏りを露にするもので、興味深い。

以上、著者の述べる教育論と数覚について説明と感想を述べてきた。本書には他にも見所がいくつかある。たとえば、アメリカ時代の回顧録にはアインシュタイン、ワイルといった「伝説上の」学者たちの、帝国大学時代の回顧録には高木貞治、伊藤清といったわが国の数学界を代表する巨人のエピソードが乗っていて興味をそそられる(高木貞治に紹介状を頼んでおいた話は笑える)し、また、エッセイの端々から著者自身の人柄の良さや夫婦仲の暖かさが覗えてその読後のぬくもり感が良い。内容の密は上に紹介してきたとおりだが、単純に読み物としても本書は十分に面白い。文理とわず、一読にもニ読にも値する一冊である。

(尾崎)

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