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論泉 RONSEN

『デビルマン』の時代

宮村直佳


前書き

今更言うまでもないが、永井豪の『デビルマン』は日本マンガ史上に残る名作である。個人的には『バイオレンスジャック』の方が好きである。しかし『デビルマン』がその後のマンガやアニメに及ぼした強烈な影響を考えると、この作品こそ永井マンガの最高傑作と見るべきだろう。その爆撃力は未だに健在であり、第一作者自身が「デビルマンの呪縛」から逃れられていないのだから。永井の集大成たる『バイオレンスジャック』が実は『デビルマン後伝』であったという驚愕のオチがその事を如実に物語っている。

僕が初めて『デビルマン』に接触したのは原作ではなく、テレビアニメ版(1972年7月〜翌年4月放送・全39話)の方が先であった。保育園の頃からこの異色ヒーロー番組に親しんでいた。僕の郷里である滋賀県ではアニメ版の再放送が繰り返されていたので《彼》の活躍に接する機会が多く、子供時代の僕にとって最も身近なヒーローであった。ウルトラマンや仮面ライダーとは一味違う不良っぽさが魅力的であった。

デビルマンは反逆者である。先住者デーモンのエリートでありながら、人類側に寝返り、元同胞と血みどろの戦いを繰り広げる。実際、彼は常に血(紫色!)を流していた。無敵のヒーローにも弱点がある。不動明(人間体)の時に受けたキズが変身(巨大化)した後の彼にとって大きな重荷になるのだ。デビルマン打倒を目指す刺客達はこの弱点を徹底的に攻めてくる為、彼はしょっちゅう苦闘を強いられていた。当時の僕は「今日は怪我するなよ〜」などとハラハラしながら、画面を見守っていたものである。

毎回登場する妖獣(怪獣じゃない!)のユニークなデザインや超能力も斬新だった。特撮番組では不可能なアニメの強味を生かした造形であった。彼らは結構頭が良く、自分なりの哲学を備えている者が多かったように思う。デビルマンも悪魔出身だけあって、正義の味方を演じる事を何処か照れている気配があった。彼の場合、溺愛する牧村美樹を守る為にデーモンと戦っているのであり、その行動が「結果的に人類防衛に繋がっている」という感じすらするのだ。

そんな僕が原作に遭遇したのは忘れもしない小学5年生の時であった。季節は冬。場所は友達の家。全3巻のKCスペシャル版であった。度肝を抜かれた。炬燵の中に潜り込んでいた僕の眼前に恐怖と幻想に彩られた作品世界が広がったのだ…。

アニメ版とマンガ版との違いのひとつに主人公の設定が挙げられる。完全に悪魔の支配下に落ちたアニメ版に対して、原作の不動明は自ら悪魔との合体を望んだ勇敢な少年として描かれている。悪魔の肉体に人間の精神を宿す画期的ヒーロー。愛する美樹ちゃんに正体を隠して孤独な戦いを続ける点は一緒だが、毎回「裏切り者」と罵られる事がない分だけ、原作のデビルマンの方がちょっぴり気楽かも知れない。何にせよ、正義の味方とはストレスの蓄積し易い稼業なのだ。

それにしても原作のファーストエピソード「悪魔復活編」の面白さは尋常ではない。田舎育ちのSF小僧はハードな世界観にすっかり魅了されてしまった。当時の僕の周りには、どういう訳か『マーズ』『ワースト』『リュウの道』と言った破滅SFが転がっており「人類は滅ぶべき存在なんだ」という異常概念が刷り込まれつつあった。そのトドメを刺してくれたのが『デビルマン』であった。今年32歳になる僕の中には、今も尚その概念が根深く残留しており、日々の思考や言動に関与している。大袈裟に言えば『デビルマン』は僕の人生を変えたマンガだったのである。

友達の家で最初の接触を果たした僕はその後、すぐに古書店を何軒かハシゴして、全巻を手元に揃えた。以降『デビルマン』を何度読み返した事か。そんな僕に『デビルマン』の掲載されていた雑誌が読みたいという願望が芽生えたのも半ば当然であった。掲載時の雰囲気に直接触れてみたいと思ったのだ。この作品は1972年6月から翌年6月までの約1年間「週間少年マガジン」に連載されていた。そこまではわかった。しかし僕が生まれる2年前の雑誌である。その頃の「マガジン」を入手する事など、当時の僕には無理な話であった。

それから時が経ち、長年の夢を容易に叶えてくれる場所がある事を知った。新宿区早稲田鶴巻町・現代マンガ図書館。そこは《内記コレクション》と呼ばれる膨大量の蔵書が蓄えられているマンガ文化を守る一大要塞である。このマンガ図書館を利用して、僕は『デビルマン』の時代を辿る旅を始めようとしている。話題の中心は無論『デビルマン』だが、他のマンガや特集記事等についても随時語ってゆきたい。脱線覚悟の珍道中だ。これにつき合おうという酔狂な人は余りいないような気もするが、今の僕は不動明を悪魔の世界へと導いた飛鳥了の心境を味わっている。

2006年2月11日

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1972年

『デビルマン』の連載が「週間少年マガジン」で開始された1972年。東宝が日本列島を海中に沈めるその前年である。現実世界でも様々な事件が勃発し、極東の島国は大いに鳴動していた。連合赤軍が篭城する浅間山山荘に鉄球がぶち込まれ、沖縄が27年振りに本土復帰を果たし、佐藤栄作が会見場から新聞記者を追い出した年であった。

この頃、マンガも熱かったが、テレビも同様に熱かった。笹沢左保原作のアウトロー時代劇『木枯らし紋次郎』(フジテレビ)が大ヒット。これに対抗すべく、TBSが池波正太郎原作の『必殺仕掛人』を放ち、激しい視聴率競争を繰り広げた。刑事ドラマの金字塔たる『太陽にほえろ!』(日本テレビ)の放送もこの年に始まっている。映画界の大スター石原裕次郎が理想の上司を余裕たっぷりで演じ切り、萩原健一や松田優作の知名度を一挙に押し上げた伝説的番組である。ショーケンも優作もまずはテレビで顔を売り、映画界へと切り込んでいった新しいタイプのスターであった。そういう意味では七曲署捜査一課のボス裕次郎とは好対照。

ボスと言えば、怪優マーロン・ブランドの代表作『ゴッドファーザー』も公開されている。深作欣二が一切の綺麗事を廃し、生々しいヤクザの生態を強烈に描いた『仁義なき戦い』を発表するのはこの翌年となる。マンガもテレビも映画も娯楽の最先端を走っていた黄金の時代。調べれば調べるほど「この頃に生まれたかったなあ」と夢想する。この世に存在すらしていない僕にはどうしようもないのだが。ただ、当時の視聴者や観客はいちいち感動したりせず、これらの名作群をある意味「当り前のもの」として消化していたのではないかとも考えたりする。後に「歴史に残る名作」という評価が定まり、ふと「ああ。俺達は凄い作品を観ていたんだな」と回想する。そんな風ではなかろうか。リアルタイムで接した人の話を聴く度にそう思う。

少年マガジン25号S47・6・11

「地球が悪魔にのっとられる!!クールな怪奇と熱い幻想で描く、新感覚の恐怖漫画!!」というイカす触れ込み。72年5月26日発売の「少年マガジン」第25号。定価100円。マンガ史上にその名を刻む悪魔伝説はここから始まった。巻頭31頁。表紙も永井が手掛けている。画面中央には不動明と勇者アモン。その背後を悪魔の群れが埋めるというデザインである。この表紙を見ただけでも何やらゾクゾクするものが背中を走り抜ける。この時期の永井の絵は技術的にはやや稚拙かも知れないが、独特の色気があり、文字通り「魔的な魅力」を濃密に感じさせる。

それにしてもこの頃の永井は忙しかった。と言うのも他誌「サンデー」「ジャンプ」「チャンピオン」に『ケダマン』『ハレンチ学園』『あばしり一家』を連載中だったのである。まさに寝る間もない多忙振りである。この3作品はいずれもギャグ的要素が強い。既に『デビルマン』の原型たる『魔王ダンテ』を世に出してはいたものの、当時、永井豪の看板は「ギャグマンガ家」だったのである。実際『デビルマン』連載直前の宣伝句を見ると「ギャグ界の鬼才豪チャンが新ジャンルに挑戦した異色作!」とあるぐらいなのだ。

元々「SFが描きたくてマンガ家になった」永井である。この新連載に関しては並々ならぬ情熱を燃やしていた筈である。加えて、掲載誌休刊による『魔王ダンテ』強制終了の鬱屈も溜まっていたと思う。諸々の作家的欲求不満を永井は『デビルマン』で思い切り爆発させた感がある。結局実現はしなかったが『魔王ダンテ』をアニメ化出来ないか?という企画が『デビルマン』の原点であったそうな。この案が変転を重ねた末に悪魔+人間=デビルマンは誕生したのである。永井としては不本意な形で終わってしまった『魔王ダンテ』だが『デビルマン』の橋頭堡的作品としての存在感は大きい。

不動明と牧村美樹の下校風景から物語の幕が上がる。両者の会話は多分にユーモラスで微笑ましい。嵐の前の静けさ。この直後、明には過酷な運命が襲いかかるのだが、善良なる少年は全くその事に気づいていない。美樹の言葉によれば《東小のサイレン》と周囲に冷やかされるほどのか弱い存在だ。女性的とも言える繊細な風貌。スポーツには興味がなく、美樹との待ち合わせ時刻まで「図書館で過ごしていた」という明君。もしかするとかなりオタク濃度の濃い少年だったのかも知れない。仮に彼が悪魔と合体しなかったら、美樹ちゃんに死ぬまでバカにされっ放しだった可能性すらある。喧嘩だの荒事だのとは無縁であり、トラブルを極力避けようとする弱気な少年がある日突然「徴兵」されてしまう所にこの物語の真の怖さがある。明を異生物との闘争に駆り立てる役割を担うのが友人・飛鳥了である。後半、了の正体は実は…という仰天の展開があるのだが、とりあえずそれは封印し、話を進めてゆきたいと思う。今回はデーモンもデビルマンも登場しないが、了の台詞の中に散りばめられたキーワードの数々がジワジワと恐怖を盛り上げてくれる。ホーラーマンガの導入部としては満点に近い出来だ。

因みに最終頁に載せられた次回予告は「親友飛鳥が語る、恐怖の遺産とはなに…!?不動明の生き方が一転する、おそるべき事実解明の来週号!!」というものであった。ドキドキしますね〜。

2006年2月12日

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先住人類

『あしたのジョー』『天才バカボン』『空手バカ一代』『群竜伝』『釘師サブやん』『スペインの星』『男おいどん』『ワル』『学園無宿ピピ』『変身忍者嵐』以上が『デビルマン』の連載が始まった「少年マガジン」72年・第25号の掲載作品である。ちば、赤塚、つのだ、本宮、松本…現在もマンガ界に独自の領域を確保する英雄豪傑が顔を揃えている。恐らく互いにライバル意識を燃やして健筆を振るっていたのだろう。かの梶原大先生も大忙しだ。更に池上遼一の短編『狂い鳩』が加わるのだから豪華絢爛である。マンガ最盛期であり「マガジン」隆盛の時代でもあった。

巻頭を飾るカラー写真満載の「立体特集」や巻末の「パンパカ学園」「こちら情報110番」「人生まんが占い」と言ったマンガ以外の記事も中々面白い。編集部の熱気や意気込みが伝わってくる。これだけ充実していればその一週間の話題には事欠かないだろう。300頁にも満たぬ枠内にギシッと圧縮された情報量。その厚味には圧倒される。マンガ誌としても情報誌としても第一級の水準に達している。この頃の子供達が本気で羨ましいぜ。

師弟関係にある石ノ森(当時は石森)章太郎と永井豪の競演というのも物凄い。マンガ家としてのスタイルやテクニックは全て石ノ森から学んだ(盗んだ?)という豪チャン。その修行時代のエピソードは滅茶苦茶面白いが、やると長くなるので、今回は割愛しよう。

俺の敵は警察より恐ろしい…舞台を飛鳥邸に移して、物語はいよいよ核心へと近づいてゆく。了の命を狙う《敵》の正体が明らかになる緊迫の第2回。

ここで素晴らしい小道具が登場する。了の父親(考古学者)が遺跡調査の折に発見したという『デーモンの歴史書』である。但し『書』と言っても我々の概念からは大きく外れている。不気味なデザインの彫像である。中が空洞になっており、被った者の脳内に保存した映像記録を直接送り込むという優れものだ。保存期間の長さや画像の鮮明度も脅威的。現在の人類科学を持ってしてもこのシステムを完璧に再現する事は困難であろう。そう。これは《人間を超える者》が作ったのだ。デーモンが単純な怪獣ではなく、高度な知能を備えている事を端的に示している。

僕はこの『歴史書』に強い愛着を感じていたので、後の「実はガラクタでした」という展開に酷くガッカリした覚えがある。尤も、この時点では永井もこれがガラクタだとは考えていなかった筈である。結末を想定せずに描き進め、それまで丹念に構築した世界観を「ある瞬間」にぶっ壊すのが永井が得意とするやり方なのである。読者も驚くし、本人も楽しんでやっているのだと思うが、辻褄が合わなくなったり、説明不可能な矛盾が生じてしまうのは否めない。僕が『デビルマン』の後半部分が余り好きになれないのもその為である。

これはギャグ作家時代の名残りであろうか。先住人類実在を力説する了に対して、明の反応がふざけ過ぎているような気がする。親友を半ば狂人扱いする明だが、案外正常な態度かなとも今にして思う。想像してみればいい。久し振りに会った友人が改造銃を携帯し、それを街中でぶっ放し、免許証を偽造したりしたら、あなたはどう思うだろうか? 挙句の果てに「悪魔」だの「先住人類」だのと喚き出したりしたら…やっぱり警戒するし、ショックも受けるだろう。仲の良かった知人が妙な思想や宗教に凝っちゃったような怖さがある。

そんな明(及び読者)の不審や疑念を吹き飛ばす悪魔世界の強烈映像。特定は出来ないが、中生代(三畳紀・ジュラ紀・白亜紀)がデーモン繁栄の時期だったらしい。恐竜が跋扈する大地を悪魔の大群が縦横無尽に駆け巡る。禍々しくも壮大なイメージに血が沸騰する。血と言えば、最終頁で『デビルマン』初の血飛沫が舞い上がる。永井作品の名物とも言える血飛沫だが、これには彼の幼児体験が大きく影響しているという。その話はいずれ触れる機会もあるだろう。画面を彩る鮮血の芸術。昔読んだ入門書に「血飛沫の作り方」という箇所があったが、随分シンプルな手法だった。永井も同様の方法を用いていると考えられる。その使い方がやたらに巧く、効果的だ。迫力もある。黒なのに「赤」を感じさせる。悪魔の血も「赤い」のかどうかはわからないが…。

今回、デーモン族の皆さんが画面全体を埋め尽くすシーンがあるが、よく見ると、次のエピソードでデビルマンと死闘を繰り広げる妖鳥シレーヌが何気に顔を出している。ファンの間でも高い人気を誇る女デーモンの代表格。彼女の造形は既に完成していたようだ。実際に登場した時よりは幾分表情が優しい(?)感じがするけれど。小学生の僕は「もし不動明が女だったら、シレーヌと合体していたんじゃないかな…」などと楽しい妄想を転がしていたものだ。当然、第一の刺客として現れるのは勇者アモン!個人的にはそういう『デビルマンレディー』が読みたかったですね。下記は掲載時の次回予告。読者の購買欲を大いにそそってくれます。

■悪夢か、幻影か!? 不動明が見た地獄の世界!! 想像を絶する恐怖の事実が判明、ドラマは意外な方向へ急展開…!!

2006年2月19日

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地球はデーモンの星

「少年マガジン」(72年・27号)の表紙は矢吹丈(油絵バージョン!)が飾っている。ちばてつやの筆による原画を読者にプレゼントしてしまうのだからマガジン編集部も気前が良い。これをゲットする幸運に恵まれた人が異常に羨ましいが、その人は現在もこの油絵を保存しているのだろうか?

『あしたのジョー』と言えば、当時のマガジン人気を支える看板マンガのひとつ。応募が殺到したであろう事は想像に難くない。物語の方もクライマックスに向けて、加速的に面白くなってきている。この号で、ジョーは宿敵ホセ・メンドーサの前で予告KOを成し遂げている。いつ破裂するかわからない「爆弾」を抱えながら、不敵な発言と大胆な行動を繰り返す主人公がたまらなく魅力的である。ジョーは来るべき「死」を本能的に感じているようにも見える。彼の破天荒な振る舞いもその恐怖から逃れようとする虚しい足掻きに過ぎなかったのかも知れない。その危うさが良い。

そして、我らがヒーロー不動明もいよいよ巨大な運命と対峙しようとしている。明が人間として生きられる時間はもう僅かなのだ。先住人類デーモン、その驚異的生態が披露される連載第3回である。

合体能力。あらゆる生物の形態や能力を取り込み、自らの肉体を強力な武器へと発達進化させる。闘争心と殺戮願望の塊たるデーモン族が誇る神秘の能力だ。永井豪がこのアイディアを得た時点で『デビルマン』の成功は約束されたように思える。この設定によって、各悪魔に奔放なデザインを施す事が可能になったのである。地球上の全動植物の融合体という着想が素晴らしい。かくしてデーモンは円谷プロ特産の怪獣群やショッカーの改造人間を軽々と超えたのだ。それでも物語前半はシンプルなデザインの者が多いが、連載が進むにつれて、作者の感覚も冴えに冴え、一度見たら忘れられないユニークなデーモンが続々と出現するようになる。

デーモンの「基本形」は我々人間とほぼ同じである。永井は女デーモンを画面に登場させて、合体能力とは如何なるものか、非常にわかり易く説明している。一見「美人」に見える女デーモンが合体に合体を重ねて、醜悪な怪物に変貌してゆく様子は悪夢めいた光景であり、読者にデーモンのおぞましさを痛烈に印象づけてくれる。とは言え、デーモンの生態に関しては謎が多い。彼らの発祥も曖昧なままだし、その個体数や繁殖方法、不老不死なのか或いは寿命が存在するのか、無限の合体が可能なのか、それとも回数制限のようなものがあるのか。かの『歴史書』が与えてくれた情報は余りにも少ない。だが、何もかも懇切丁寧に説明してくれれば良いのかと言うと、必ずしもそうではない。ある程度の謎を残してくれた方が、自分の空想で「余白を埋める」作業が楽しめるからである。そういう意味でもデーモン族は格好の素材であり、興味が尽きる事はない。

地球の王者として殷賑を極めたデーモン族だが、突如その栄光と殺戮の歴史にストップがかかった。氷河期の到来である。手元の資料によれば「中生代には大規模な氷河期はなかった」とあるが、さしもの凶暴悪魔軍団も寒さには弱かった。デーモン族は長い長い冬眠生活を強いられる事になる。その間、デーモンに代わって、地上の覇権を握ったのが我々人類という訳である。もしデーモンが氷河期に遭遇していなかったら、人類の台頭は有り得なかっただろう。仮に人類の原型のような生物が誕生したとしても、食欲旺盛な彼らがその発展を許したとはとても思えない。もしかすると彼らは恐竜絶滅にも濃密に関係しているのかも知れない。恐竜滅亡の有力仮説として隕石衝突説や火山噴火説が唱えられているが、『デビルマン』の世界においては「デーモンに食い潰された」と考えてもおかしくはないだろう。まあ、幾らなんでも全部の種を食べ尽くすのは無理としても、彼らがお手軽な食糧として大型爬虫類を使っていた可能性は高い。彼らにとって「食い殺す」という行為は最も日常的な行動だと考えられる。理由は簡単。食欲と殺戮欲を同時に満たす事が出来るからである。

何故現代にデーモン族が蘇ったのか? これもまた謎である。或いは宇宙的な地球意思のようなものが働いたのであろうか。詳しくは知らないが「ガイア思想」というものがあるらしい。地球を「一個の生命体」として捉える考え方である。個人的にはこの思想を全面的に支持する気にはなれないが、ユニークな説である事は認めよう。地球という生物にとって人類ほど有害なウイルスは存在しないだろう。日々体内外を侵食する悪質な癌細胞のようなものだ。その限界点を人類が踏み越えた瞬間、地球はデーモンを呼び出したのではなかろうか? 残忍残虐な性格は恐ろしいが、デーモンの能力は総じて大自然の発展形である。完全無公害の天然兵器群。これほど「地球に優しい」刺客はまず考えられまい。人類という危険要素を排除する為に彼らは遥かな時を超えて帰ってきたのだ…というのが僕の勝手な想像だが、色々な空想(妄想?)を巡らせられるのがこの作品の懐の深さなのだ。尚、このテーマは後に岩明均が『寄生獣』にて追求する事になる。90年代の『デビルマン』とも謳われた名作だが、その話は別の場所でじっくり語るとしよう。今は当面の主題であるデーモン族について掘り下げる事に専念したいと思う。

2006年2月26日

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サムライ、デーモンを斬る

人間はデーモンを知っている。世界各地に残る妖怪伝説はデーモン族目撃の証拠であると飛鳥了は力説する。この際「悪魔は神と同じく空想の産物だと思われていた」という興味深い発言をしている。これは誤りである。物語の後半、神が「空想の産物」などではない事が披露されるし、了自身、彼らとの戦闘経験さえあるのだ。そして彼らとの激烈な戦いがデーモン族の冬眠にも深く関係しているのだが、この時の了はその事を完全に忘れている。いや「忘れている事になっている」と言うべきか。何故なら「神と悪魔の闘争」という設定はどう考えても後から追加されたものだからである。

このように後半の展開を頭に入れた上で『デビルマン』を最初から読み返してみると、幾つかの新鮮な驚きにぶつかる。当然ながら辻褄が合わない部分もあるが、絶妙の伏線として威力を発揮している部分もある。但し「伏線」と言っても作者が意識して配置したものではなく、結果的に伏線として機能しているに過ぎないのだが…。永井豪のように「筆のおもむくままに」物語を進めてゆくと、矛盾や亀裂が生じるのは避けられない。しかし、それ故に「何が起こるかわからない」という独特の興奮が味わえるのも確かである。予定調和とは無縁の世界。精密性には欠けるが、大鉈で豪快に刻み込んだような荒々しい魅力を感じる。

地表の急激な寒冷化、氷河期の到来により地球の歴史から消え去ったかに見えたデーモン族だが、一部の者はかなり古い時期から人間界に出没していたらしい。我が国にも相当数のデーモンが流れ込んでいたようだ。最もポピュラーな妖怪のひとつである河童は水生デーモンの一種であろう。彼は亀や水鳥と合体したのだろうか。日本各地に出現する雪女は冷凍能力に長けた女デーモンだろう。世界的に有名な人魚はデーモンと魚類が合体したものであろうか。それにしても妖怪遭遇譚とデーモンを結びつけるという大胆な発想が秀逸である。いきなり竜や天狗を登場させるよりも一枚手が込んでいるし、作品世界に厚味や奥行きが加わる。

僕の郷里である滋賀県にも『三上山の大百足』という怪物伝説がある。俵藤太(藤原秀郷)に退治された大百足は差し詰め節足動物系の大型デーモンと言ったところか。秀郷は平将門の眉間を射抜いただけではなく、先住人類の尖兵をも仕留めていたのだ。凄い武将である。いやいや、かの反乱将軍はデーモンに憑依されていたのかも? まさかまさか。歴史の裏にデーモンありだって? そんなバカな。あはははは。

鬼もまたデーモンの一種か。渡辺綱が片腕を斬り落した羅城門の茨木童子や、源頼光と四天王に首を刎ねられた大江山の酒呑童子。源頼政が討ち果たしたとされる鵺(ヌエ)などは頭が猿、手足が虎、尻尾が蛇というフォルムをしており、まさに「あらゆる生物の集合体」たるデーモンの特徴を満たしている。秀郷、頼光、頼政は元祖悪魔ハンターとでも呼ぶべき豪傑であり、不動明の先輩格である。もしかすると彼らの中にデビルマンが混じっていたのかも知れない。近年人気の安倍晴明も一寸気になる。渡辺綱とも親交があった最強陰陽師の正体がデビルマンだったとしたら…想像するだけでも楽しいじゃないですか。何にせよ、機械文明に毒される以前の人類はそれなりに魔界の住民=デーモンに対する免疫力を備えていたようである。因みに渡辺綱と源頼光のエピソードは永井の『手天童子』に巧く引用されているので、興味のある方は読んでみて下さい。流石に『デビルマン』の迫力には及ばぬものの、中々の名作である。

デーモンの主力部隊は南極と北極に潜伏している。広大な氷の世界に夥しい数の悪魔が眠っているというイメージもスケール感に富んでいる。今回、永井は子供の頃からの愛読書(!)である『神曲』を悪魔実在を裏付ける小道具として活用している。三つ首の魔王ルキフェルの話である。氷の中に封印された魔王ルキフェルをダンテが「本当に見た」と言うのである。さてルキフェルとは一体何者なのか? 後に登場する悪魔王ゼノンを指しているのは間違いない。

第3回の冒頭、デーモン達が小グループに分かれて抗争を繰り広げているという描写がある。僕はこれを「デーモンの戦国時代」と勝手に呼んでいるのだが、この流血の時代を平定したのが、他ならぬゼノンであろう。全身武器の塊。残忍酷薄な殺戮生命体デーモンを束ねるのだから、その統率力、戦闘力は計り知れない。テレビアニメ版のゼノンは「悪の秘密結社の首領」的な役割を演じていたが、原作版のゼノンはそんな生易しいものではない。出番自体は少ないが、デーモン族の総大将に相応しい貫禄とアクの強さを有しており、読者の度肝を抜いてくれる。かの勇者アモンが戦慄するというのも頷ける。凄絶な印象を放つ敵役としてSFマンガ史に刻まれるべき名キャラクターと言えよう。僕などは未だにこいつが夢に出てくる。

飛鳥教授。了の父親にして優秀な考古学者。異国の美女と結婚した国際派でもある。未曾有の大発見である『デーモンの歴史書』を自宅に持ち帰ってしまった点は問題だが、侵略者デーモンに対抗する手段を編み出した勇気ある男だ。その為に彼は自身の肉体を悪魔に捧げている。並の科学者には不可能な芸当である。そして彼は息子にとんでもない「遺産」を遺した。それは了一人で相続出来るような代物ではなかった。故に彼は…。以下は掲載当時の予告文。明君、友達は慎重に選びましょうね。

■悪魔デーモン一族は実在する。しかも現代によみがえっていたとは!? 了の語る恐怖の事実にまきこまれる明の前途は?

2006年3月4日

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人類皆殺し作戦

「少年マガジン」(72年・第28号)の表紙を飾るのは笑福亭仁鶴。マンガ誌の表紙と言えば、美形タレントや人気キャラクターが主流の現在から見ると、まず有り得ない人選であろう。だが、その有り得なさがかえって新鮮だ。巻頭の「カラー特別企画」では、イラスト募集(第12号)の入選作がズラリと並んでいる。モーパッサン、レイ・ブラッドベリ、江戸川乱歩等の小説を題材にした力作群は迫力充分。でも選評は結構辛口である。この企画には新たな才能の発掘という目的も含まれていたのだろう。当時の「マガジン」はあらゆる分野に手を出し、読者の好奇心を刺激していた。マンガ誌と言うよりも「総合娯楽雑誌」という趣を感じる。

『デビルマン』第4回の扉絵はカラー。左上方に「7月からテレビ放映開始!」の告知が出ている。この年の7月8日からアニメ版『デビルマン』は始まった。チャンネルはテレビ朝日系列。時間は土曜日の午後8時30分〜9時。因みに8時〜8時30分は特撮番組『人造人間キカイダー』が放送されていた。永井豪と石ノ森章太郎。かの師弟コンビは当時のマンガ界、テレビ界を席巻する一大勢力であったのだ。土曜日の8時〜9時とくればもうおわかりだろう。そう。怪物的お笑い番組『8時だヨ!全員集合』(TBS系列)である。デビルマンとキカイダー。どちらも一筋縄ではゆかない苦悩を抱える異色ヒーローの代表選手だが、彼らはデーモンやダークだけではなく、常に高視聴率を弾き出す裏番組とも激しい攻防を繰り広げていたのである。

第1回で飛鳥教授が焼身自殺を遂げた事を聞かされた時、不動明は涙を流している。この涙の正体は何か。教授の死に衝撃を受けたのは勿論だが、第一の親友たる了が天涯孤独の身になってしまった事を不憫に感じたようだ。むしろこちらの気持ちの方が強いように見える。いずれにせよ、相当繊細な神経の持ち主である事は確かだ。ところで、この異常に友人思いの少年が「いつ了に出会ったのか」が気になる。幼稚園、小学校以来の親友なのか、それともつき合い自体は短いのか。それを裏付ける情報は残念ながら劇中には記されていない。何故そんな事が気になるのかと言うと、仮に飛鳥了が「十年来の友達」だとすると、明はこの時点でデーモンの記憶操作を受けている事になるからである。それをやっているのは当然、精神攻撃の名手サイコジェニーであろう。サイコジェニーは物語後半に登場するが「デビルマンを倒した」悪魔として忘れ難い存在である。

気の遠くなるような深い眠りから目覚めたデーモン族はとりあえず世界各地に偵察部隊を派遣したらしい。宇宙に浮かぶ緑の宝玉。彼らの愛する奇跡の星は人間という名の新生物によって醜悪に改造されていた。了は「昼寝の内(家?)に入ったコソドロ」という表現を使っている。デーモンにとって人間は我が家を蝕む白蟻の大群という訳か。害虫駆除は住民の正当な権利と言えよう。人間を発見したデーモンはまずその徹底調査から始めた。敵について綿密に調べるという行為は兵法にも適っている。彼らの中には優秀な参謀が揃っているようだ。恐らく、人間界における諸葛亮孔明や智多星呉用に該当する悪魔がいるのだろう。或いはゼノン自らがその役割を担っているのかも知れない。いきなり攻撃を仕掛けてくる侵略者の方がまだ楽である。入念な事前工作を重ねた上で宣戦を布告してくるのだからデーモンも人が悪い。いや、彼らは人じゃないか。円谷プロ的な言い方をすれば、悪質宇宙人の狡猾さと用心棒怪獣の破壊力の両方を兼備しているのがデーモンなのだ。

飛鳥教授はデーモンの放った偵察員と合体した。記念すべきデビルマン第1号は教授であるという見方も可能だろう。物語の導入部で提示された「教授の焼死体は2人分の体重を有していた」という謎もこれで解ける。となると、デビルマンはウカウカ体重計にも乗れない事になる。明君も大変だ。悪魔が人間に憑依すると、肉体だけではなく、合体先の記憶や知識も吸収する事が出来るようだ。この特性を逆用して教授はデーモンの侵攻計画を察知したのである。悪魔側としてはなるべく頭の良さそうな奴を狙った方が得策だ。但し世の中にはエリートのフリをした人や自分は賢いと思い込んでいる人も少なくないので注意が必要である。合体してから「ダメだこりゃ」じゃ、遅過ぎます。まあ、そう言ったハプニングも覚悟の上の人間界探索なのだと思うが。デビルマンの出現はデーモン族にとって最大最悪の誤算だったと考えられる。魔王ゼノンも頭が痛い。

地球を人間から奪い返す。それがデーモンの下したシンプルな結論であった。全悪魔はこの大作戦に参加する事になる。密かにデーモン首脳陣は「人類がいてくれて良かった」と安堵しているような気もする。殺戮を最高の生き甲斐とするデーモンにとって、敵の存在は不可欠だ。敵がいなければ闘争も起こらない。平和な生活を満喫するなんて出来そうもない。自然ストレスも蓄積する。そうなれば彼らが行う行動はひとつしかない。共食いである。またしても戦国時代に逆戻りになってしまう。それほどに彼らは残酷で危険な種族なのだ。デーモンの嗜虐性に温厚な明は恐怖するが、人類も殺しの才能に関しては彼らに負けていない。親が子を殺し、子が親を殺す。悪魔と人類は単に進化の過程が異なるだけで、根幹は同じ生物と言えなくもないのである。

2006年3月12日

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デーモンの愛、悪魔の友情

人類の歴史は武器発達の歴史でもある。如何に効率良く、如何に大勢の敵を殺すか。有史以前から人類はその方法を模索し、研究し、実用化してきた。武器の歴史とくれば、鬼才スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』の第一章「人類の夜明け」を想い出す。ヒトザルが空中に放り投げた骨(人類最初の武器)が、次の瞬間、核武装した宇宙船に変じる場面だ。人類の歴史を的確に捉えた映画史上に残る名場面である。この傑作は『デビルマン』の連載が始まる4年前に公開され、当時の観客の度肝を抜き、賛否両論を巻き起こした。それまでは半ばゲテモノ扱いされていたSF映画の地位を一気に向上させた記念碑的作品でもある。

地球奪還作戦の第一段階。デーモン族は人間を知る事から始めた。まさかデーモンの偵察部隊が『2001年』を観たとは思えないが、当然人類史についても詳しく調べ上げたに違いない。それは暴力と殺戮と狂気の記録。時に「悪魔的な」凶暴性、残虐性を剥き出しにする生物。かの調査員は内心驚いたのではないか。こいつらは恐ろしく俺達に似ている…と。人類の持つ殺しのテクノロジーも軽視出来ない。強烈痛烈な破壊力を有する現代兵器の数々。その使用範囲も海底から宇宙までと多岐に亘っている。これと正面からぶつかれば、さしもの喧嘩自慢のデーモンも幾ら犠牲者が出るかわからない。返り討ちに遭う可能性もある。どうやらこいつらは簡単に食い潰せる相手じゃないな…と悟ったデーモンは人間の武器を積極的に利用する方向へ路線変更。彼らは自軍の優勢を築くまで徹底したゲリラ戦術を貫いている。この辺りの柔軟性がデーモンの強味だろう。でも人類にとっては大災難。余談だが1972年は「米ソ戦略兵器制限暫定協定及びABM制限条約」「生物・毒素兵器禁止条約」が調印されている。デーモン調査団はこれも上司に報告しているんだろうな。

飛鳥了の分析を信じるなら「原爆並の戦闘力を秘めたデーモン」が存在するらしい。まさにゴジラ、ガメラに匹敵する生ける核爆弾と言えよう。恐らくこれはゼノンを指していると考えられるのだが、かの悪魔王がその腕前(?)を披露する機会は与えられなかった。或いはゼノン直属の《百の魔将軍》のメンバー内にそのような超戦士がいるのだろうか。この魔将軍というのも気になる連中だ。その詳細は謎に包まれている。何しろ実際に登場したのは日本に派遣されたザンのみなので、さしもの僕も空想を膨らませようがないのだ。もしかすると「こいつは魔将軍の一人じゃないのかな?」と思わせるキャラクターもいるのだが、断定を下せるだけの材料が揃っていないのである。アニメ版では魔将軍ザンニン、妖将軍ムザン、妖元帥レイコックという個性豊かな幹部デーモンが大活躍している。因みにデビルマン(アモン?)は魔王親衛隊の副隊長だったそうな。

仮に『デビルマン』の連載がもう1年延びていれば、シレーヌ、カイム、ジンメン、サイコジェニー等に比肩する有力悪魔が何体か登場しただろう。連載1年、単行本にして全5巻。本来ならこの壮大な物語を収め切れる容量ではないのだ。読者人気に迎合した無意味な延長は不愉快なだけだが『デビルマン』に関しては、もう少し続けさせてあげたかった。永井豪としても描き足りなさを感じつつの連載終了だったと思う。以降、永井はこの不満を解消しようと大いにもがく事になる。今も現役作家として精力的に活動を続けている永井ではあるが『デビルマン』を超える作品はもう描けまい。もし描けたら奇跡だ。その時は土下座して謝ります。そういう意味でも『デビルマン』は一世一代の傑作であった。マンガと映画。ジャンルは異なるが、永井にとって『デビルマン』はキューブリックの『2001年』に該当する作品だと言って良いだろう。

「デーモンの心に愛はない!まさしく悪魔だ!」第4回最大の問題発言がコレである。物語を読み進めてゆく内にこの了の台詞がデタラメ(に近い)事がわかってくるだろう。結論から言ってしまうと、デーモンに「愛はある」のである。彼らが恋愛感情らしきものを持っている事はカイムの言動や行動を見れば明らかだ。後半には「カイムの仇を討つ」と息巻く奴(名称不明)まで現れる。総大将ゼノンの「デビルマンを殺すな」という指示さえもそいつは無視しようとするのだ。魔王の命令に逆らえばこいつもタダでは済むまい。死ぬより辛い「百地獄の刑罰」にかけられるかも知れないのだ。それでもカイムの仇討ちに執着するとは天晴れな仲間意識であり、梁山泊の好漢にも通じる厚き友情である。了が絶叫する「悪魔の条件」にピタリと当て嵌まるのはジンメンぐらいではなかろうか。この時は気づいていないが、実は了当人が最も愛に狂った存在なのである。相当に倒錯した愛ではあるのだが。その対象は言うまでもないだろう。最近の人間界は「条件」を満たした人がウロウロしているから怖いですね。人類も悪魔化してきたのかな。以下は掲載時の予告文…と言いたいところですが、今回は予告が載りませんでしたので、自分で勝手に作ってみました。それでは、また来週。

■悪魔デーモン一族の侵攻計画は確実に進んでいる。恐怖の遺産、それはデーモンと戦うただひとつの方法だった! 飛鳥邸に襲来する悪魔の群れ。果たして明と了は生き残れるのか!?

2006年3月19日

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明、デーモンに遭遇する

先住人類デーモンの復活。その能力と生態。そして、恐るべき地球奪還計画の発動…喋りたい事は全て喋り尽くしたかに見える飛鳥了だが、肝心の「悪魔対策法」については言葉を濁している。第1回で既に提示されている「恐怖の遺産」の正体がそれである。デーモンと戦う方法。読者の大部分はそれが何であるかわかっているが、了は中々核心に触れようとしない。いや、触れられないと言うべきか。まるでそれを口にする事を酷く怖がっているかのようである。確かにそれは途轍もない内容であり、大抵の人間なら発狂してもおかしくはない。激しく揺れる感情が「俺一人で受けられるようなものではないんだ」(第1回)「我々にとって恐怖なんだ。どうしようもなく恐ろしい事なんだよ」「怖い思いをするのはお前だけじゃない。俺だって怖いんだ」(第4回)等々の台詞に繋がっているのだろう。

甚大なストレスに耐え切れなくなった為、了は不動明を地獄の道連れにする事にした。明としては大変な迷惑だが、この金髪の美少年にそんな事を配慮している余裕はなかった。了が明を選んだ理由がまた凄まじい。第1回後半の台詞「俺にはお前しか信じられる人間がいない!お前以外は全て敵に見える。父が遺したものを見せられる人間は不動明!君だけなんだ!」ここまで言われてしまったら「じゃあ帰ります」と退散する訳にもゆかなくなる。まして明君は底抜けのお人好しである。この時点で明は了の手の内から逃れなくなったと言えるだろう。ここで退き帰していれば、彼の人生も随分変わっていたと思う。実はこの巧妙な話術こそ、了最大の武器なのである。この剣の威力は抜群であり、ついには人類を破滅へと導くのである。まさに悪魔の舌だ。

それにしても「お前以外は全て敵に見える」とは尋常ではない。どのような体験を経れば人はこのような台詞を吐くようになるのだろうか。まるで被害妄想の塊である。人間は知ってはいけない事を知ってしまうと人格が変形してしまうのだろうか。地球を肉眼で確認した宇宙飛行士が帰還後、宗教や妙な思想に走り出すように。未知のものに対する人間の許容量は案外底が浅いのかな。全然関係ないけど、テレビアニメ版のエンディングでは「誰も知らない。知られちゃいけない」って歌ってましたね。切なくて良い歌なんだ、コレが。因みに作詞は亜久悠。原作に話を戻すと、前述の了の台詞は一種の愛の告白だったと考えられる。この時、了は自分が何者なのか「忘れている」のだが、後半の展開を把握した上でこの後の了の言動を追走してみるのも面白いだろう。全ての行動は明への愛がなせる業。ノンケ(多分)の明としてはやっぱり迷惑な話だが…。

「少年マガジン」(72年・第29号)も盛り沢山の内容で魅せる。今回の目玉は「ジョー特版ポスター」であろうか。人気上昇中にあったキンキンこと愛川欽也の総力特集も凄い。更に大山倍達大先生の『日本の空手は負けていない』という痛烈な文章も寄せられている。世界大会敗退の責任をとらない日本空手連盟を徹底的に批判している。しかも文中イラストを手掛けているのは生瀬範義御大! 生瀬はド迫力ポスターの名手として映画ファンには馴染み深い存在である。例えツマラナイ映画でも生瀬が描くと何やら面白そうに見えるのだから不思議だ。かと思えば、巻末の「情報110番」では特撮ヒーロー番組『変身忍者嵐』のエキストラ募集の記事が載っていたりする。この撮影に参加した小中学生(当時)の皆さんは今頃どうしているのだろうか。

『デビルマン』第5回は緊張の幕開け。第4回の後半、デーモンの刺客団が了の車を急襲する。明としては生まれて初めて遭遇する「生デーモン」だ。彼の周章狼狽振りは滑稽ですらあるが、正常な反応かなとも思う。その上、相手は明確な殺意を持っているのだ。了の説明を受けて、最低限の知識を得たとは言え、突然異形の怪物が襲ってきたら誰でもこうなっちゃうよな。だから明君の醜態は余り笑えないです。さて刺客団の顔触れだが、これが如何にも雑魚集団。見るからに頭が悪そうである。どうやら全てのデーモンが高い知能を備えている訳ではないようだ。彼らは将棋で言えば歩兵か、精々香車クラスの連中なのだろう。まあ、たかが人間二匹を始末する為に精鋭部隊の出動でもあるまいが。彼らのリーダー格らしい烏賊悪魔の眉間を了が撃ち抜く場面が素晴らしい。噴出する鮮血が窓の外側を真っ赤に染める。出たっ。永井マンガの醍醐味、血飛沫の美学。

車内に侵入してきた烏賊悪魔の触手を見て「うわー。お父ちゃん。ぎゃあ」と悲鳴を上げる明。劇中「明のお父ちゃん」が登場する事は一度もない。明の家族は「オヤジが海外勤務になった」ので、彼を除く全員が「あっち」へ引っ越したらしい。一人日本に残された明は牧村家の居候として厄介になる事になる。美樹の台詞によると「セッシャのオヤジはオヌシのパパと親友」だそうだが、他人の息子を自宅に住まわせるのだから、牧村氏は精神的にも経済的にも潤沢な人物だと言えるだろう。心の何処かで「明君を美樹の花婿にしよう」と目論んでいたとも考えられるが。このような好漢と友人関係にあるという事は明の父親も相当優秀な人材と見て間違いない。明&美樹。誰もが認める美形カップルだ。デーモン族の復活さえなければ、彼らは幸福な家庭を築いていただろう。但し気弱な旦那は終始嫁さんの尻に敷かれっ放しだっただろうけど。

明の家族の運命については皆目わからない。後半の山場、デーモンの世界一斉攻撃の折に「あちら」で全滅したと予想される。人類防衛に奔走するデビルマンには家族の心配をする時間などなかったのである。因みに飯田つとむ(現・馬之介)が監督したオリジナルビデオ版には明の両親が登場。こちらでは亀悪魔ジンメンに食われるのはサッちゃんではなく、明の母親に変更されている。悪魔の甲羅に取り込まれた肉親の顔。彼らは人類史上最悪の再会を果たす事になる。飯田版『デビルマン』の出来は良く、僕も満足している。特に『誕生篇』は名作だと思う。しかし『妖鳥死麗濡篇』以降、新作は発表されておらず、未完に終わってしまったのが残念である。飯田には永井マンガを原作にしたもうひとつの傑作があるのだが、その話は別の機会にしよう。

2006年3月26日

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入ったら二度と出られない部屋

烏賊悪魔の追撃。了に額を撃ち砕かれても「ホホホホホ」などと余裕の笑いを浮かべている。通常の生物なら即死は免れない重傷だが、彼女にとっては心地好い刺激と言った感じである。デーモン族の強靭な生命力だ。切断された筈の触手もいつの間にか再生してるし…えっ。単なる描き忘れだって?これは失礼。今、迂闊にも烏賊悪魔を「彼女」と呼んでしまったが、その体形からして多分この人は「女」でしょう。胸部からヌラリと生えた触手が禍々しい。永井豪ならではのエロいデザインである。ところで、悪魔族の男女の比率はどうなっているのだろうか。どちらかと言えば、男デーモンの方が多いような気がするが、本当の所はよくわからない。中には剽軽者サイコジェニーのようなオカマっぽい奴もいて、悪魔の性別判断は中々に困難である。

仮に男の数が女の数を上回っているのだとすると、悪魔社会も人間界の過疎地みたいに「嫁飢饉」が起きていたりするのかも知れない…ってそんなバカな。そもそも悪魔社会に「結婚」とか「家庭」とかいう習慣があるのかどうか。デーモン族は一人一人が余りに強い生物なので「子孫を残そう」という感覚自体が希薄だとも考えられる。彼らはセックスよりも殺し合いを愛する種族なのだろうか。尤も「合体」は大好きみたいだけど。当たり前の話だが、増える数よりも死ぬ数の方が多ければデーモン族はいずれ滅び去る事になってしまう。どうやら悪魔の個体数は人類のそれよりかなり少ないらしい。繁殖力の弱さがデーモン唯一の泣き所ではないだろうか。その辺りをどのように考えているのか、悪魔王ゼノンに質問をぶつけてみたいものである。

悪魔社会は徹底した実力主義に貫かれている。男だの女だのは関係ない。何よりも戦闘能力の高さが優先されるのだ。彼らの世界は人間界よりも余程男女同権が確立されているのである。強者が偉い。弱者は強者に絶対の忠誠を尽くす。例えば妖鳥シレーヌを見てみよう。彼女には水悪魔ゲルマーと泥悪魔アグウェルという2人の部下が与えられている。ゲルマーもアグウェルも特殊能力に長けた曲者(将棋で言えば、桂馬クラスか?)だが、非情にもデビルマン打倒の捨て駒として利用されている。彼らは自分達の役割を心得ている。それでも彼らは文句ひとつ零さずに死んでゆくのである。何故ならシレーヌが自分達よりも強いからである。物語の後半、デーモンは猛烈な特攻作戦や自爆攻撃を敢行するが、全ては「強い奴に従う」という意識がなせる業と言えよう。色んな理屈で誤魔化されてはいるものの、人間社会も所詮は弱肉強食である。否、虚飾で塗り固められている分だけ陰湿と言えるかも知れない。故にデーモン族のシンプルな社会構造がかえって斬新に映る。悪魔から見れば、訳のわからないシガラミに日々右往左往している人間族など失笑の対象でしかないだろう。

刺客団の奇襲を受けて、飛鳥邸への撤退を余儀なくされた了と明。ここで了は邸内に用意した「地下室」について初めて触れる。そこは鋼鉄の壁に囲まれた頑強な部屋だという。下級悪魔の攻撃程度なら充分防げる部屋だという。小学生の僕は最初「対悪魔用の地下シェルター」か何かかな?と思っていたのだが、それはとんでもない誤りである事が後にわかる。読者の予想を凌駕する展開が矢継ぎ早に繰り出される。この快感がたまらない。凡百のSFマンガでは味わえない無類の面白さ。僕が「悪魔復活編」に惹かれる理由はそこにある。了は明に最終確認を取る。このままデーモンに食われるか、それとも「恐怖の遺産」を継承するか。どちらも地獄である。究極の選択を迫られる明。両者の背後に血を流した烏賊悪魔がグングン接近してくる演出が良い。読者の恐怖感を煽る事に一役買っている。静止した映像の羅列に過ぎない筈のマンガに独特の「動き」が加わっている名場面である。こういう細かい描写の積み重ねが作品全体の厚味へと繋がってゆくのだ。

結局、明は後者を選んだ。前者を選んだら早くも『デビルマン』完結になってしまうので仕方ないが。目前の恐怖から逃れる為に更に巨大な恐怖を選択してしまう辺りが人の性。そう。この時点では明は紛れもない「人間」であったのだ。勇者アモンとの合体以降、彼はとても高校生とは思えない落ち着きを見せる。周囲に近づき難い雰囲気を常時発散している少年。こんな人が同級生にいたら一寸怖いですね。個人的には「わあわあ。きゃあきゃあ」と驚き騒いでいる明君に親近感を覚えますな。多少ナヨナヨしているのは難だけど、話してみれば面白いぞ、きっと。そんな彼特有の好ましさはかの大魔神さえも魅了してしまったのである。やれやれ。

例の地下室だが、設計から建築まで僅か一ヶ月で作られた事になる。恐るべき早業である。いや、この部屋は了が悪魔の存在を確信してから作られた筈なので期間はもっと短いかも知れない。壁が動いたり、床が持ち上がったりと複雑なカラクリが施されている。かなり優秀な設計士や大工さんがこれを手掛けたに違いない。彼らは「この部屋、一体何に使うのかねえ」と疑問を覚えつつ仕事を進めたのだろう。費用も随分かかったと思うが、飛鳥教授は「恐怖の遺産」だけでなく、相当額の金銭的遺産も息子に遺したらしい。考古学がそんなに儲かる商売とは思えないが、飛鳥家は代々の資産家なのだろうか。それとも亡き奥さんの財産でも転がり込んだのだろうか。などと妄想空想は無限に広がってゆきますが、この辺にしておきますか。ところで烏賊悪魔の活躍は今回でオシマイ。彼女のその後の運命は不明。やっぱりデビルマンと化した明にブッ殺されたのかな。

■地下の密室に身を投じた明だが、これも了の計画か…!? 恐怖の遺産のうけつぎをめぐり、いったいなにがおきる!?(掲載時の次回予告)

2006年4月2日

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魔王の夢、砂漠の塔

「少年誌界随一の内容を誇る漫画陣!」「図解・記事企画でも完全に他誌を圧倒」「内容充実!迫力満点の来週号!乞うご期待!!」自信満々の惹句がズラリと並ぶ。烏賊悪魔に追い詰められた明と了が飛鳥邸の地下室へ逃げ込んだ『デビルマン』第5回。このエピソードが掲載された「少年マガジン」(72年・29号)の最終頁を飾るのが前述の《第30号のお知らせ》である。この頃の「マガジン」が実際どの程度売れていたのか目下調べている最中である。他誌の発行部数も含めて、信用にたる数字が判明次第、この場で発表したいと思う。さて「マガジン」に「完全に圧倒されてしまっている」他誌ではどのような作品が連載されていたのだろうか。その全てを紹介分析している暇は流石にないので、ここではSFマンガに絞って見てみる事にしよう。なかなかどうして物凄い顔触れが揃っている。マンガ最盛期はやはり70年代かも知れない。

まず「チャンピオン」に目を向けてみよう。水島新司のライフワークにして、同誌黄金時代の立役者の一たる『ドカベン』の連載が既に始まっている。この頃、山田太郎は柔道部に所属していた。同時期に連載されていたつのだじろうの『泣くな!十円』の主人公がいきなり登場するというお遊びも行われている。永井豪の『あばしり一家』を筆頭に、ジョージ秋山の『ゴミムシくん』や吾妻ひでおの『きまぐれ悟空』等、ギャグ勢力は充実しているが、他の作品は「マガジン」にやや遅れを取っているという感じは否めない。その中にあって、横山光輝の『バビル2世』は「チャンピオン」を支える看板作品のひとつであった。超能力を題材にしたSF活劇の秀作である。バベルの塔の伝説を巧みに引き込んでいる辺りは伝奇SFマンガの先駆と言えるだろう。

『バビル2世』も僕にとっては思い入れの深いマンガである。我が滋賀県では『デビルマン』同様、テレビアニメ版が頻繁に再放送されており、僕も死ぬほど観た。バビル2世を演じる神谷明の声も初々しかった。当初、かの野沢雅子先生が配役されていたらしいが、最終的には新人の神谷が抜擢され、彼はこの大役を全力で演じた。これが転機となり、以降、神谷は主役級キャラクターの声を任される事になるのだった。因みに宿敵ヨミを演じたのはチャールズ・ブロンソンの吹き替えで有名な大塚周夫だった。主にヒーロー役を得意とする神谷と悪役敵役をしたたかに演じこなす大塚。アニメに洋画にと両雄は現在も活躍を続けている。余談を重ねると、人気声優・大塚明夫は周夫の息子さんである。アニメも原作も物語の設定はほぼ同じだが、味わいは微妙に異なる。視聴者(子供)が感情移入し易いようにする為の配慮だろう。テレビのバビル2世は健全な少年ヒーローとして描かれている。一方、原作のバビル2世は時に非情ささえ感じさせる戦闘機械としての側面を持っている。このクールな主役像とワイルドな衣装は荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』のメインキャラクター空条承太郎へと受け継がれてゆく。

三つのしもべ。超能力少年バビル2世を守る無敵の護衛団だ。最強の空中戦力にして、御主人様の移動手段でもある怪鳥ロプロス、水陸両用の闘神ポセイドン、変幻自在の人工生物ロデム。個人的にはポセイドンが好きだった。何よりもその頑丈さがイカした。ヨミ軍団の苛烈な攻撃を受けても傷ひとつつかない抜群の防御力。恐らく核爆弾が直撃してもこの万能ロボットは壊れないのではないだろうか。物語後半、ロプロスは敵方の水爆によって哀れ撃墜されてしまったが…。作者独特の武骨なデザインも勇ましく、横山マンガを代表する傑作メカニックと言えるだろう。三つのしもべだけでも脅威的だが、更に地上最高の電子頭脳が頼もしい軍師として発火少年の活動を支援している。多彩な迎撃システム、そして、自己再生機能をも備える科学要塞バベルの塔。世界制覇を標榜するヨミは最強の城を掌中に収めるべく、手を変え品を変えて、執拗な奪取作戦を仕掛けるのだった。両陣営が繰り広げる一進一退の攻防戦は将棋やチェスの名手同士の対局を連想させる。

面白い活劇にはユニークな敵役が不可欠である。闇の帝王ヨミの存在がこの物語に厚味を加えている。小生意気なエスパー小僧との果てしない戦い。ヨミは世界中に張り巡らせた組織力でバビル2世に対抗する。ヨミもバビル2世もルーツを辿れば同じバビル家(?)の血を引いているという設定も秀逸である。自分は選ばれなかったという猛烈な劣等感がヨミの燃やす野望の炎に油を注いでいるような気もする。コンピューターに超能力戦士としての英才教育を施されたバビル2世に比べると、ヨミはまだまだ人間臭い部分を残している。そこがまた彼の魅力に繋がっているのである。原則的に部下を大事にするのがヨミのスタイルである。どんなに強くても単独では世界を束ねる事は不可能である。優秀な腹心や側近がいて初めて、天下統一計画は完成するのだ。その事をヨミは充分心得ているように思える。ダークサイドのスパースター。この人物には《梟雄》の称号こそが相応しい。ヨミは遥か中国大陸から時空を超えて転生してきた曹操孟徳ではなかろうか。

ヨミの最期もアニメと原作とでは異なる。後者の場合、バビル2世は廃人と化したヨミの「見逃してくれ」という頼みをあっさり受け入れてしまうのである。さっきまでロプロスの仇討ちを誓っていた割には、甘ったるい結末であり、ハードさを求める僕としては大いに不満だが、もしかすると横山自身、ヨミに愛着を覚えていて、彼を殺すのは忍びなかったのかも知れない。この際の「俺は地球を支配したいとは思ったが、地球を滅ぼす心算はない」というヨミの台詞が記憶に残っている。ヨミの最後の砦は北極海に建築された。自分なりのバベルの塔を作ろうというのが彼の目論見であった。言わばバベルの塔のイミテーション。この偽バベル計画の裏にも例のコンプレックスが働いているのだろうか。

北極や南極は超能力オヤジが終の棲家を構えたり、先住人類が冬眠していたりと、SFマンガの定番舞台となっている。人間界から隔絶されている点が何かと都合が良いし、氷の国特有の神秘的なムードもあるので、荒唐無稽のSF世界には持って来いのシチュエーションなのだろう。今回は『バビル2世』の話を長々と続けてしまったが、それだけ僕の執心が強いという事で御勘弁下さい。毎回『デビルマン』の話ばっかりじゃ飽きちゃうしね。そんな訳で、次回登場を願うのは楳図かずおとジョージ秋山。両鬼才がこの時期「サンデー」に連載していたSFマンガについて語りたいと思う。

2006年4月9日

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恵美子の異常な愛情、大富豪の奇妙な投資

先日。現代マンガ図書館で「少年ジャンプ」(72年・26号)と「少年サンデー」(72年・26号)を借りてみた。両誌に掲載されていたSFマンガに触れてみるのが目的であった。それに時代の匂いを感じるには当時の雑誌を読んでみるのが最も手っ取り早い方法である。まず「ジャンプ」の布陣だが、残念ながらSF色は希薄である。目次を見ると掲載作が「ストーリー」と「ギャグ」に分けられている。前者の代表格は『荒野の少年イサム』『侍ジャイアンツ』辺りだろうか。ガンマンとサムライが仲良く並んでいるのが面白い。サムライと言えば、本宮ひろ志の『武蔵』も掲載されている。オカマっぽい小次郎が無気味な印象を放つ作品。銃と刀は男の子の永遠の遊び道具だ。小室孝太郎の『ミステリオス』という気になる作品も載っているが、ややパワー不足。小室と言えば『ワースト』という破滅SFを手掛けている。永井豪の『デビルマン』に比肩する傑作だと思うのだが、意外に知名度が低いような気がする。やっぱりテレビアニメにならないと駄目なのかな。小室の師匠たる手塚治虫の短篇『でんでこでん』も載っていた。マンガの神様もまだまだ元気だった。

後者の筆頭は『ハレンチ学園』である。永井ギャグの最高峰であり「ジャンプ」の売り上げアップにも大いに貢献していたと考えられる。既成概念の破壊は永井の独壇場である。この作品でも彼の能力が発揮されている。故に反発も激しい。連載中、永井は良識ある方々から猛烈な批判攻撃を受ける事になる。逆に言えばそれぐらいの作品でなければ歴史には残らない。この頃の永井は「マガジン」「ジャンプ」「サンデー」「チャンピオン」の四大誌全てを制覇していた超多忙作家であった。彼の主要作品はこの頃に集中的に描かれている。殺人的スケジュールの中で数々の名作怪作が量産されていたのである。時にマンガ家はスポーツ選手に例えられるが、どちらも最盛期はごく短い。その「黄金の瞬間」にどれだけの成績(名作)が残せるかがその者の評価を決定するのだ。この年の9月に『ハレンチ学園』は衝撃的な結末を迎える。読者にトラウマを癒す時間さえ与えず、永井はその翌月に『マジンガーZ』の連載を開始している。ロボットマンガ(アニメ)の基本パターンを確立した記念碑的作品である。これも話し始めるといつ終わるのかわからないので、今回は割愛する。

次に「サンデー」を見てみよう。永島慎二、水島新司、古谷三敏、赤塚不二夫…他誌に劣らぬ強力な才能を揃えている。爆発力には欠けるが安定感は抜群という感じだ。全体的に上品な雰囲気。安心して楽しめる優良誌と言ったところか。それにしても当時のマンガ家は働き者が多い。永井同様、複数の雑誌に連載を持っている者が少なくないのだ。ふと現代に眼を向けると、単品連載の割には内容が薄く、絵の質も低い作品が大半を占めているのはどういう訳なのか。独自の魅力が感じられる作品が何と少ない事か。以前ならマンガ界に入門していた才能が別ジャンルに行ってしまっているのだろうか。或いは才能自体が存在しないのか。もしかするとマンガと言う名の生命体の死期が近づいているのかも知れない。根っからのマンガ好きとしては寂しい限りである。話を1972年に戻すが、僕が借りた26号には『漂流教室』と『ザ・ムーン』というふたつのSFマンガが載っていた。前者は楳図かずおのパニックSF超大作。後者はジョージ秋山の異色ロボットマンガだ。この二大傑作を同時に読めるなんて! 当時の「サンデー」読者は贅沢な時間を過ごしていたものである。

『漂流教室』は綿密な構想に基づいて描かれており、無類の面白さと完成度の高さは名作の多い楳図作品の中でもずば抜けている。作者特有のハッタリを利かせた演出も効果的だ。ある日突然、大和小学校と862名の生徒(教職員、その他も含む)は原因不明の爆発によって、未来へと飛ばされてしまう。そこは得体の知れぬ怪生物が蠢く地獄のような世界であった。絶望の未来で繰り広げられる凄絶なサバイバル劇。極限状況では、固定観念に凝り固まった大人よりも柔軟性に富んだ子供の方が強いという設定がユニーク。環境の激変に耐えられない大人達。ある者は自殺し、ある者は発狂し、ある者はエゴを剥き出しにして、子供達に襲いかかる。物語は現代と未来を行ったり来たりする。現代篇における主人公の母親・恵美子(美形)の活躍が忘れ難い。愛妻を的確にサポートする旦那も最高にカッコイイ。未来にいる息子の窮地を救うべく、恵美子は狂気をも感じさせる獅子奮迅の行動を展開する。余りにも極端過ぎて、ユーモラスな印象すら受ける。彼女の強靭な愛情は時空を超えて息子・翔に届く。個人的には殺人鬼と化した担任教師に追い詰められた翔にナイフを「転送」するエピソードが大好きである。このエピソードを楽しむ為に僕は何度でも『漂流教室』を読みたくなる。

『ザ・ムーン』も興味深い作品だ。ロボットマンガの体裁を保ちながら「正義とは何か?」「国家とは何か?」という深刻なテーマが盛り込まれている。謎の大富豪《魔魔男爵》が2兆5千億円というとんでもないカネを投入して建造したスーパーロボット。それがザ・ムーンだ。言わば「悪」が作った「正義」である。栄えあるムーンの操縦者に選ばれたのは、サンスウ、カテイカ、シャカイ、ズコウ、タイソウ、オンガク、リカ兄弟、ヨウチエン…9人の少年少女だった。穢れた大人に正義を実行するのは不可能というのが男爵の考えであった。その結論は『漂流教室』の主題にも通じる。9人の意思が一致した時、初めて、ムーンはウドの大木から無敵の巨人と化すのである。操縦者の脳波をキャッチして作動するロボットという設定は後のロボットアニメでも採用されている。ジョージ秋山の先見性の凄さ。ムーンとまともにぶつかる愚を悟った悪党達は少年達に照準を絞る。正義感は強いものの彼らはバビル2世のような超人ではないのだ。これが独特のサスペンスを発生させる事に一役買っている。彼らの用心棒として活躍するのが《糞虫》と呼ばれる黒装束の男である。見かけは冴えないが、男爵直属の凄腕の仕事人だ。男爵も糞虫もサンスウ達以上に強烈なキャラクター。彼らのアクの強さには度肝を抜かれる。主人公9人が殺戮カビの海に沈んでゆく最終回も痛烈であった。この際の「サンスウとカテイカの結婚式」や「チョコレートで乾杯」は涙なしでは読めない出色の名場面と言えよう。

脱線が長くなってしまった。軌道修正…次回から本題たる『デビルマン』の話を再開しよう。明と了が鋼鉄の地下道で待っている。

2006年4月23日

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了の涙、明の決意

『デビルマン』の第6回が掲載された「少年マガジン」(72年・第30号)では蒸気機関車に関する大特集が組まれていた。これが実によく出来ている。渾身の《立体特集》は「原色日本SL大図鑑」「図解ピンナップC51」「SLパーフェクト情報」の三段構えでSLの魅力を語り尽くしている。各国の名機関車の紹介に始まり、その歴史とメカニズムの詳細説明、解体されたSLがナンボで処分されるか、そして鉄道マニアの奇行珍行に至るまで漏れなく網羅されている。この記事を読んでSL道(?)に目覚めた少年も少なくないのではないか。どんなモノでもそこにはそれを開発した者の情熱や英知や時間が込められている。それを掘り下げてゆく事はとても興味深く面白い作業だ。学問の楽しさとはこういうものなのかも知れない。この世に生れ落ちて以来「一度もベンキョーした事がない」僕が偉そうに言える台詞ではないけれど。ところで第27号の読者プレゼントの目玉「ジョーの油絵」をゲットしたのは滋賀県のNさんでした。まさか同郷の人だったとは!

さて、烏賊悪魔の追撃から地下へと逃れた明と了に話を移そう。了が「父の遺産を受け継ぐ為に作った部屋」だという地下室の扉の前で明は「悪魔と戦う方法」を知る。いや、さしもの明も既に「それ」に気づいていた。ここまで「それ」を実際に口にする事を意図的に避けていただけなのだ。デーモン族に対抗する唯一の手段。それは敵であるデーモンの超能力を奪い取る事だった。悪魔の肉体と精神を乗っ取り、我がものとする。あらゆる生物と合体可能なデーモンの得意技を逆用するという飛鳥教授発案の奇計であった。悪魔の体に人間の心を備える第三の生物デビルマン。デビルマンの誕生は「人間としての死」へ繋がる。登場時から続く、了の暗鬱な表情、問題発言を重ねてきた破れかぶれな態度の裏には「人間でなくなる恐怖」が潜んでいたのだ。

「この意味がわかるか明! 人間でなくなるという意味が!」「人間である事の幸せを悲しみを人生を…その全てを捨てるのだ…」蓄積していたストレスが一気に爆発したのか、涙を流しながら絶叫を繰り返す了。ついこの前まで『オモライ君』を連載していた作者と同一人物とは思えないシリアスな展開である。幼い僕には了の葛藤や苦悶が今ひとつ理解出来ていなかったように思う。デビルマンの持つ戦闘力や特殊能力は当時イジメられ気味だった小学生の僕にはとても魅力的に映ったのである。余り性能の良くない人間の体なんて要らないよと考えていたのだ。否、その考えは未だに僕の中に残留しているような気もする。人間である事を放棄して、その代償にそれこそ悪魔的能力を入手するというテーマはSFマンガでは頻繁に扱われる題材である。それは僕達が抱いている変身願望や超人願望を満たしてくれる。だが「超能力者は迫害を受ける」というのもSFの重大テーマのひとつなのだ。この作品が優れているのはこの二大テーマを痛烈に描き切っている点だろう。

「いいんだよ了…君と一緒なら」「君一人が悪魔になって苦しむのを見ているよりはずっといい。俺も一緒に悪魔になる方が…」謝罪する了に対して、明がかけた台詞がコレである。如何に友情に厚い性格とは言え、凡人には理解し辛い言動である。明にここまで言わせるものは一体何なのか。やはりこの二人の美少年の間には友情を超える愛情が存在するのだろうか。ただ明も了も最早後戻りの出来ない地点にまで追い詰められてしまっているのも確かである。今更暗殺部隊がウヨウヨしている地上に帰った所で食い殺されるのがオチである。デーモン族と戦う。悪魔の侵略から人類を守る。そんな空前の大目的もさる事ながら、明の中で「どうすればこの状況から脱出する事が出来るのか、生き残る為にはどうすれば良いのか?」という生命維持の本能が狂気の如く回転し、結果弾き出した解答が、悪魔との合体だったのではあるまいか。窮地に落とし込まれた人間は普段からは想像も出来ない勇気や知恵を発揮する事がある。これこそ人間=不動明の底力だ。彼の名前は降魔の利剣を振るう仏教守護の闘神《不動明王》に由来する。喧嘩の腕前はともかく、少なくともその精神力の強靭さは不動明王の名に恥じないレベルに達している。普通の人間ならとっくに気が狂っていると思います。

人類防衛の秘策「デビルマン作戦」を息子に遺した飛鳥教授は衝撃の焼身自殺を遂げた。デビルマン第1号は何故に死を選んだのか? その理由を了は麻薬を混ぜ込んだタバコ(何処から持ってきたのかわからないが)を吸いながら淡々と語り始める。麻薬入りのタバコ。この小道具も激甚なストレスから逃れる術のひとつだと思われるが、了の双眸に宿る狂気の光は麻薬吸飲も相当影響しているのではないか。悪魔に食われる前にこの少年は中毒死、もしくは廃人化する危険性がある。どちらにせよ、長生きは出来ない星の下だろう。作者たる永井も当初そう考えていたらしいが、この飛鳥了というキャラクターは恐るべき生命力を発現し、最終回までちゃっかり生き延びてしまうのである。このように小説やマンガには「キャラクターが勝手に動き出す」という現象が時折起きると聞いている。特に永井のようなトランス系作家にはこの傾向が顕著である。作者の脳内で創造(想像)されたに過ぎない筈の人物が独自の生命を帯び始めるとは何とも不思議な話だが、物語を紡ぐという作業は案外そういうものであるらしい。もしかするとパラレルワールドの何処かに「不動明の住む世界」が存在しているのかも知れない。それを感度抜群の永井豪というアンテナがキャッチして、マンガという形で僕達の世界に発表したのが、この『デビルマン』という作品なのかも知れない…なーんて、図らずも話がオカルト的な方向に流れてしまったが、まあ、たまにはいいでしょう。それでは、また来週。

2006年5月4日

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飛鳥教授、自殺の秘密

「…つまり変形能力のせいなんだ。自身の細胞の配列を変えて、自由な形になる能力だ」飛鳥了がサラッと説明してくれたデーモン族の特殊能力である。メタモルフォーゼ。全ての悪魔がこの能力を備えているという。彼らの間ではごく当たり前の能力であり、自慢する価値もない「標準装備」と言えるだろう。だが、この彼らにとっては平凡な能力こそ、デーモン最大の武器だと思う。この力を使えば敵中に潜り込む事も簡単だし、あらゆるゲリラ戦法が可能となる。実際デーモン族はこの能力を活用して、人間界侵入を易々と果たしてしまったのである。悪魔対人類の勝敗は戦端を開く前から既に決していたのかも知れない。東洋西洋を問わずに人間に化ける妖怪怪物は数多い。この不可思議な現象を「メタモルフォーゼ」というSF用語を使って、ある程度の説得性を持たせた事が永井豪の勝利である。今となっては珍しくもない言葉だが、連載当時は新鮮な印象を読者に与えたのではないだろうか。

変身能力に加えて、全員が屈強な戦士であり、知恵も度胸も備えているとなると、これは容易ならざる敵である。更にデーモン族の人類技術に対する適応性も背筋を凍らせるものがある。文明の利器を彼らが積極的に活用している点に注目したい。敵を滅ぼす為に敵のテクノロジーを使う事を彼らは熟知しているのだ。これほど効率が良く、合理的な戦術もないだろう。彼らとしては人類叡智の使用方法さえ理解出来ればそれでいいのだ。道具の原理や作り方などには興味はないだろうし、その必要性もない。日本の安全神話を瓦解させた地下鉄サリン事件や世界を震撼させた同時多発テロ等の大規模な殺戮行動も彼らなら手軽にやってのけるだろう。

デーモン族が1970年代ではなく、仮に現代(21世紀)に蘇っていたとしたら、携帯電話やインターネットも「人類皆殺し作戦」の中に巧みに取り込んでいたに違いない。これら一連の技術と合体する奴が出てくる可能性(危険性)もないとは言えない。パソコンを起動させると、画面に「そいつ」が姿を現し、観た者を一人残らず幻惑したり、誘惑したり、爆殺したりしたら人間界は空前のパニックに陥る。かの《百の魔将軍》のメンバーならその程度の細工は充分可能であろう。場合によっては、ホームページを立ち上げる奴だって出てくるかも知れない。悪魔が運営するサイトがどんな内容なのか一寸覗いてみたい気もするが。命懸けの閲覧になるな。とにかく悪魔は頭が良い。もし知能試験を受けさせたらゾッとするような高得点を叩き出す筈だ。

会社員、車掌、主婦、自衛隊員、ミサイル将校、政治家…ザッと並べてみただけでもデーモン族の多彩な変身振りに驚かされる。悪魔が人間と合体するとその知識や記憶も引き継ぐ事が出来る。そうすれば人間社会に溶け込み易くなるが、恐らく大半のデーモンは合体せずに人間界に潜入していると考えられる。何故なら人間との合体は「難しい条件」があるので、彼らとしても慎重に行わざるを得ないからである。化けようと思う人間を密殺すると、そのデーモンは殺した相手に変身する訳だが、その後、何食わぬ顔をして「人間としての生活」送っているのだから大したものだ。幾ら外見はそっくりでも中身は「別人」なのだから、家庭や職場で冷や汗をかく場面も多いのではないか。それらの小危機を乗り越え、来るべき総攻撃に備えて着々と事前工作に勤しむ。余程の応用力と演技力がなければ出来ない仕事だ。臨機応変にして芝居巧者。そう。デーモン族は名優揃いなのである。尤も彼らの世界では演劇だの芝居だのという行為は発想自体存在しないだろうが。

デビルマンと対戦したデーモンの中で「人間体」の姿を見せたのは亀悪魔ジンメンのみである。陰湿デーモンの代表のようなジンメンさんだが、新幹線も運転出来る(?)し、牧村家に電話をかけたりもしている。中々に芸の細かい男なのである。流石は栄えある《ザン魔団》に名を連ねるエリートデーモン。でも最初は勝手がわからず、噂の特別講習を受講させられたりして。この時の腹いせに「食べた」上司の一人が彼の甲羅に刻まれている…というのは僕の妄想。デビルマンの好敵手たる妖鳥シレーヌは本体のまま登場し、その状態で大血戦に突入してしまったので「人間体」を披露してくれる機会はなかった(但し後の作品には登場している)。もしシレーヌが人間に変身したとしたら、相当な美女になっていたと思う。彼女の漂わせる「人間離れした」妖艶な雰囲気に惹かれて、その住まいを訪ねる男も少なくないだろう。勿論それ以降そいつの姿を見た奴は誰もいないだろうが。食い殺されるか、八つ裂きにされるか、何にせよ凄惨な運命が彼を待っている。ついでに言うと、精神操作が大好きなサイコジェニーは歌舞伎町辺りに毎晩出没していそうである。怖い怖い。

飛鳥教授はデーモンの調査員と合体する事により、彼らの野望を知り、人類絶滅の危機を察知した。ところで教授は自らの意思で悪魔と「合体した」のか、それとも「合体された」のか。了の話を信じるならどうやら前者らしいが、僕などは及びもつかぬ強靭な精神力と人類愛を併せ持つ人物だと言える。だが、そのような豪傑でさえ、悪魔の精神侵食には耐えられなかったのである。一旦は悪魔の体を乗っ取る事に成功したものの、教授は悪魔特有の殺戮衝動に突き動かされ、カナリヤを殺し、愛犬ジョンを殺し、ついには息子の寝室に忍び込み、その喉笛を狙った。つまり教授は「デビルマンに成り切れなかった」のである。このままでは近い内に悪魔に精神を奪い返される。そう判断した教授の行動がまた凄まじい。自らガソリンをかぶり、焼身自殺を図ったのである。自分の命を犠牲にして悪魔を「焼き殺した」と言い換える事も出来るだろう。凄い男だ。

デビルマン第1号の悲惨な末路。教授の焼死体の重量は「生きてる時の倍あった!」そうだが、検死に立ち会った警察は何の疑問も抱かなかっただろうか。著名な考古学者たる飛鳥教授の謎めいた死。この怪事件に不審を抱いたアウトロー刑事が独力で真相究明に乗り出す…てな感じの短篇ホラーは如何だろうか。このマンガをまともに映像化(実写化)するのは至難の業だが、少し頭を働かせれば面白い映画が作れそうである。要は素材の生かし方。勝算がないなら最初から手を出さなければいい。無駄銭を使わずに済むし、顰蹙を買う事もない。こんな事ばっかりやってたら本当に日本映画は消滅しちゃうぜ。えっ。もう消滅してるって? 実は劇作家のじんのひろあきが『デビルマン』を土台にして面白い戯曲を書き、上演している。残念ながら僕はこの作品を観ていないのだが、脚本は読んだ。原作の後半部分を舞台にしたユニークなホン(脚本)だった。わかっている人はわかっているのである。じんのひろあき。彼もまた永井チルドレンの一人である。では、掲載時の次回予告を紹介して、今回の与太話を締めたいと思います。ガンバレ、日本映画!(意味不明)

■悪魔と合体した了の父がたどった悲劇の結末は…? 不動明がうけつぐ「恐怖の遺産」 があかされる緊迫の来 週号!!

2006年5月13日

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