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論泉 RONSEN

フランス詩の庭から

山本 薫


Rondeau

Charles d'Orléans

Le temps a laissié son manteau

De vent, de froidure et de pluye,

Et s'est vestu de brouderie

De soleil luyant, cler et beau.

Il n'y a beste ne oyseau

Qu'en son jargon ne chante ou crie.

Le temps a laissié son manteau.

Riviere, fontaine et ruisseau

Portent en livree jolie
Gouttes d'argent d'orfaverie ;

Chascun s'abille de nouveau.

Le temps a laissié son manteau.

ロンドー

シャルル・ドルレアン

季節がマントを脱ぎました。

風と寒さと雨のマントを脱ぎました、

そして太陽の輝きと明るさと美しさを

刺繍したマントをはおりました。

動物も鳥も、誰もが自分たちの言葉で

歌ったり叫んだりしました。

季節がマントを脱ぎました。

川も泉もせせらぎも

銀の水滴の飾りの

きれいな衣をまといました。

誰もが新しい衣装を着ました。

季節がマントを脱ぎました。

2006年、2月4日 訳:山本 薫

ロンドー

シャルル・ドルレアン(1394−1465)

凍てつくような風と、ときおり降る冷たい雨、冬の間人々はじっと春の到来を待ちわびます。

春はどこからどのようにやってくるのでしょう。古今東西、春の訪れの喜びを詠った歌は数限りなくあります。

このロンドーもその一つ。シャルル・ドルレアンによる15世紀、フランスの詩です。

シャルル・ドルレアンは、フランス国王シャルル6世の弟でありオルレアンの領主であるルイ・ドルレアンを父に持ち、ミラノ公女ヴァレンティーナ・ヴィスコンティを母に持つ王侯貴族の出身でした。百年戦争の続く中、13歳のときに父を暗殺された後、オルレアン公としてアルマニャック派を率いて、当時イギリスと手を結んでいたブルゴーニュ派と戦いましたが、1415年アザンクールの戦いでイギリス軍に捕らえられ、以後、25年間イギリスで捕虜として過ごしました。

フランスに帰国してしばらく後に、ブロア城に隠棲しながら文学生活を送ります。城では詩の競演をしたり、評判の高いすぐれた詩人を呼び集め庇護したりしていましたが、自らも繊細で優雅な作風の詩をたくさん書いていました。「こぞの雪、いまいずこ」のリフレインで知られるバラッド詩の作者フランソワ・ヴィヨンもブロア城に招待されていました。

この詩の題名『ロンドー』というのは詩の形式名でもあります。詩形にはオードやソネなど、イタリアなどから伝わってきたものもすくなくありませんが、ロンドーはフランス古来の詩形として中世以来親しまれ流行しました。12〜3世紀ごろにはダンス曲として歌われたようですが14世紀から15世紀にかけては文芸詩として多様な形で詠まれるようになっていきました。詩形の特徴はリフレイン、詩行の繰り返しにあります。この詩も1行目、7行目、12行目にリフレインが使われています。また一説によれば、6行目のあと、1行目だけでなく2行目も繰り返され、また最終行として1行目を繰り返すようになっていたとのことですが、今回はよく知られる上記の形で訳しました。ブロア城の広間でこのロンドーを歌いながらダンスを楽しむ人々の輪の中に、シャルル・ドレルアンもイギリスの冬を思い出しながら加わるということもあったかもしれません。

季節を擬人化し、気候をマントに喩え、春の到来の喜びを優しく美しく歌い表しています。鳥や獣の「他のものには分からないそれぞれの言葉で」歌い叫ぶ声も愛らしく、命あるものの暖かさが感じられます。第3詩節では今にもせせらぎの瀬音が聞こえてくるようですが、その音も擬人化した水の喜びの歌声のように聞こえてきます。

川べりの草地に跳ねる水滴は銀細工に喩えられ、繊細な眩さと華やかさをそえるものでありとりわけ印象的ですが、この喩えで誰もが思い出すのがランボーの『谷間に眠る者』の第1節の詩句でしょう。

「小川が銀のボロ布を夢中になって草にかけながら歌っている・・・」

「そこには太陽が光を当て、光線が無数の泡をたてている・・・」

ランボーのこの詩はシャルル・ドルレアンの『銀の・・・衣』という言葉を織り込むことによりにより、『ロンドー』の生命の息吹に満ちた春が背景となり『谷間に眠る者』の悲しさがいっそう際立つという効果をあげています。

今年の日本はとりわけ寒さの厳しい冬です。『ロンドー』を読みながら春の陽光を待ってみてはいかがでしょう。

2006年2月11日

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Ode à Cassandre

Pierre de Ronsard

Mignonne, allons voir si la rose

Qui ce matin avoit desclose

Sa robe de pourpre au soleil,

A point perdu ceste vesprée

Les plis de sa robe pourprée,

Et son teint au vostre pareil.

Las! voyez comme en peu d’espace,

Mignonne, elle a dessus la place

Las! las ses beautez laissé cheoir!

Ô vrayment marastre Nature,

Puis au’une telle fleur ne dure

Que du matin jusques au soir!

Donc, si vous me croyez, mignonne,

Tandis que vostre âge fleuronne

En sa plus verte nouveauté,

Cueillez, cueillez vostre jeunesse:

Comme à ceste fleur la vieillesse

Fera ternir vostre beauté.

カッサンドルへのオード

ピエール・ド・ロンサール

ぼくの可愛い人よ、見に行こう

朝の光を受け緋色に輝く

その衣を広げたあの薔薇が

夕べに、その重なるひだの衣と

君の頬に似た紅色を失ってはいないかと。

ああ! ごらん、ほんの少しの間に

ぼくの可愛い人よ、あの美しい薔薇は

なんということか、地面に散ってしまった。

おお、おお、自然よ、なんと意地悪な母であることか、

このような美しい花でさえ、朝から夕べまで

その命を永らえることができないとは!

だから ぼくを信じてくれるのなら、可愛い人よ、

君が、新緑の葉の中で

花を咲かせるこのときに

摘めよ、摘めよ、君の若さを

この花のように老いが

君の輝きを曇らせてしまうだろうから。

2006年、4月11日 訳:山本 薫

カッサンドルへのオード

ピエール・ド・ロンサール(1524-1585)

「可愛い人よ、見に行こう」と詩人に誘われ、私たちはロンサールの薔薇の世界に導かれます。喩えるものと喩えられるものとが、薄布を重ねるように何層にも重なり合い、交じり合い、美しいハーモニーを醸し出しています。若者が出会ったばかりの女性に、今朝、咲いたばかりの朝日を受けて輝くみずみずしい薔薇のイメージが重なり、そのふっくらとした何枚もの花びらは女性のスカートの、ひだをたっぷりとって膨らんだ衣のようでもあり、あるいは頬のよう、あるいは小さな唇のようでもあります。

女性の手を取り若者の足は駆け出さんばかりです。せく気持ちに不安がよぎります。しかしその不安は的中してしまい、あれほど輝いていた、可愛い恋人に見せたかった薔薇はもうありません。地面に散り落ちてしまった花びらは、なんとはかなく、その時の移ろいやすさに思わず嘆息の声が出てしまいます。「朝から夕べまで」と言う時の流れは恋の始まりから終わりへの予感、青春から老い、死への悲哀と重なります。

そうであるならば、それだからこそ、この時を逃さず恋をしなさい、ぼくを信じて、恐れずに、と語りかけるこの詩想はホラティウスの詩句「摘めよ、この日を」Carpe diem(カルペディエム)にその源は遡ります。ロンサールはこの普遍的テーマに、薔薇と女性のモチーフ、語りかけるような詩の構成、脚韻やリズムによって、親しみやすさとみずみずしさを与え、フランスルネッサンスを代表する名詩を誕生させたのです。

脚韻をみてみましょう。1詩節は6行から成っていますが、全3詩節、それぞれ第1行と第2行は同じ韻(平韻)で、そこにも工夫があるようです。

 第1詩節 rose (薔薇) ⇔ desclose(開く)

 第2詩節 d’espace(時間) ⇔ place(場所)

 第3詩節 mignonne(可愛い人) ⇔ fleuronne(花で飾られた)

このように、それぞれ意味のつながる言葉が重なるようになっています。

この詩の形式名、「オード」は「歌われる抒情詩」という意味で、昔ギリシアやローマでは竪琴や他の楽器による伴奏とともに歌われていました。実際、この詩も発表すると、たちまち評判になり、1行8音節の歌いやすいリズムもあって、多くの人々に愛唱されていたようです。この詩が発表された時代は、繰り返されるイタリア戦争はようやく終わったものの、旧教と新教の対立が深まっていました。すさんだ人々の心に、どれほどの喜びをもたらしたことでしょうか。その宗教戦争にからむアンリ・ド・ギーズ公爵が1588年、ブロア城で暗殺された時、その直前まで楽しく歌っていたのがこの詩だったそうです。

このエピソードは、この詩とブロア城の不思議なつながりを思わせます。ロンサールが始めてカッサンドルに会ったのが1545年、まさにこのブロア城でのヴァロア王家の舞踏会でした。竪琴を弾きながら歌をうたう15歳のカッサンドルに、20歳のロンサールは一目ですっかり心を奪われたようです。少女の父はメディチ家につながるフィレンツェ名家出身の銀行家で、フランスに移住し、フランス人女性と結婚していました。カッサンドル・サルヴィヤチーという名前に、当時フランスより文化的に進んでいたイタリアの薫り、ルネッサンスの文学の薫りがしていたと推測することもできましょう。しかしロンサールは聖職にあったため結婚することはかなわず、翌年カッサンドルは近隣の貴族と結婚してしまいました。その後カッサンドルは、文学的にも多感な頃のロンサールの詩の女神として、長く心に残ったのでした。

ロンサールは16歳になる直前の1540年、人生を大きく変える出来事がありました。それまで宮廷に仕える身として王太子や王子、王妃らに伴い諸外国を周っていましたが、帰郷したある日、突然の高熱に襲われ、難聴になり、生涯悩まされるようになってしまいました。官吏や外交官としての道は閉ざされてしまいましたが、森や野、泉、小川などの愛する故郷の豊かな自然が、もともと感受性に恵まれていたロンサールに文学の道を開いたようです。

そのころイタリアからルネッサンスの風が吹いていたフランスです。ロンサールが最も熱心に読んだのがホラティウスでした。また学問を進めるうちに、ローマ文化のその先にはさらにギリシア文化があることを知り、ギリシア文学も貪欲に学んでいきましたが、それは逆に、当時のフランスの詩の貧困さに気づかされることでもありました。イタリアも、すでにダンテの「神曲」、ペトラルカのソネットなど、すぐれた詩がありました。

そこで、文学に熱い思いを持っていたロンサールは、七人の学友たちと会派を作り、1549年、「フランス語の擁護と発揚」La Deffence et Illustration de Françoyse という宣言文を発表しました。それは自国の詩を徹底的に批判するものの、ローマやギリシアの詩に学びフランス語でラテン詩、ギリシア詩に負けないような立派な詩、文学を作り出そうという、旗幟鮮明、かなりアグレッシブな、見方を変えれば傲慢とも言えるような書き方だったようです。しかしこの若き詩人たちは美しいフランス語ですぐれた詩を書いていこう、そして必ずやフランス語でもそのような詩が書けるのであると信じ、実践していったのです。その頃から、そして現代でもロンサールとその友人たち七人は、七つ星の星座にちなんで「すばる」「プレヤード派」と呼ばれています。

ロンサールはこのあと1552年の『恋愛集』Les Amoursを始めとし、次々に詩集を出版して行きました。始めは「固いギリシア」というような詩風から「やわらかいギリシア」に変わっていき、薔薇や小鳥、泉など田園の自然を題材とする詩が多く生まれ、その世紀の終わりごろまで広く長く愛されたようです。

しかし17世紀、18世紀の文学の流れの中でロンサールはすっかり忘れられて後、20世紀になってから見直され「フランス近代抒情詩の父」と高い評価を受け、教科書にも載り、たいていのフランス人ならこの「カッサンドルへのオード」は知るようになりました。バラのスケッチの脇に、「Mignonne, allons voir si la rose・・」と、この第一句が添えられていることもよくあります。「ピエール・ド・ロンサール」という名前のバラも作られ、日本でも多くの人に愛好されています。

薔薇の美しさに、自然や恋愛の、あるいは人生のはかなさを詠んだロンサールですが、このように再び見事にその花を咲かせたのは、詩というものの永遠さを表すものではないでしょうか、はかなさではなくて・・・。

もうすぐ薔薇の季節になります。庭に咲いた薔薇、あるいは花屋さんの店先で薔薇を見かけたら、そっと近づいてみませんか? きっと「摘めよ、摘めよ、君の青春を」と微笑んでいる少女がそこにいると思いますよ。

2006年4月16日

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