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論泉 RONSEN

現代教育の断面


パブリックスクールは日本には根付かない

尾崎

先日、愛知県蒲郡市に全寮制中高一貫私立校・海陽中等教育学校が開校した。共同通信によれば、海陽中等教育学校はトヨタ自動車・JR東海・中部電力の三社が中心として出資・設立された学校法人によって運営されるということで、そのモデルは、英国で二番目に古いパブリックスクールの名門・イートン校である、という。イートン校といえば英国の指導者を数多く輩出したことで名高い私立校であるから、これをモデルにしたということは、要するに勉学だけなく人格養成も兼ねた総合的なエリート教育を企図するものであろう。もともと私立校というのは、ややもすれば画一的になりがちな教育に多様性を補完するものであり、かつ、保守系知識人の主張を鵜呑みにすれば、日本国の国家運営上の支障はエリート不在に負う所もすくなくないそうだから、エリート養成校を作る、という試みの進取性自体は否定すべきではないだろう。しかしながら、たとえばモデルとなった英国パブリックスクールの文化的・社会的背景を考察したとき、あまりの“土壌”の違いに、これを日本に移植するのは無理だろう、という率直な思いを抱かざるを得ない。その思いに客観性を付与すべく、まずは英国パブリックスクールの歴史と社会背景を概観しようと思う。

平凡社世界大百科事典によれば、イギリスで最初のパブリックスクール・ウィンチェスター校が開かれたのは1382年、これをモデルに上述のイートン校が開かれたのは1440年とのことであるから、おおむねその勃興期は14世紀後半から15世紀中盤、ということになる。この時期は、対外的には百年戦争および王権と教権との対立、対内的には都市庶民の台頭による二院制議会という形が確立しつつあった時期であり、身分の貴賎や資産の多寡によらず誰でも入学できるという建前のパブリックスクール(“差別することなく開かれた学校”くらいの意であろう)設立の背景には、教会による教育支配を脱することと、台頭した庶民層の教育参加および庶民層への権力側の配慮がある。

もっとも設立当初は庶民に対して開かれた学校として非富裕層の庶民を多く受け入れたパブリックスクールも時代が変わるにつれて徐々にその意義を失い、19世紀には、従来の貴族層および新興ブルジョア層という上流層ないし中上流層の子弟に対するエリート教育の場と完全に様変わりした(前掲百科事典より)。その背景にはジェントルマン的価値観を身に付けなければ新興ブルジョア層といえども国王・貴族・地主という支配体制の一員となれないイギリス独自の安定的社会構成と、植民地経営を担うべく忠誠心ある人材を欲した当時の大英帝国の国家事情があった、といわれている(ただし、旧来からの貴族のような一族意識と伝統に支えられた家族教育システムを持たない新興ブルジョア子弟の入学者が増えたせいであろうか19世紀後半のパブリックスクールの評判はあまり芳しくなかった、と越智道雄『ワスプ(WASP) アメリカンエリートはどうつくられるか』には書かれている)。

そして没落の20世紀を経て今日、いまや英国に19世紀のようなエリート教育の必要性は薄れたわけであるが、しかし、ジェントルマンとしての価値観を身に付けないことにはいくら財産があってもジェントルマンとは認められない、という前者の階層概念はいまだ健在であり、イギリス近代史専攻の今井宏東京女子大学教授はジェントルマンか非ジェントルマンかに決定的な境界線が引かれているところにイギリス社会の特徴がある、と述べている(平凡社世界大百科事典「イギリス」より)。今日のパブリックスクールの意義もその点にあり、すなわち、既存の上流層の階級維持のための子弟教育ないし新興富裕層の階級的ステップアップのための子弟教育こそがパブリックスクールの今日的役割といえよう。

もっとも、ジェントルマンと非ジェントルマンという二つの国民の分裂状態を克服しなければ、という意識も強く、たとえばそれはイギリス王室の世俗化や、或いはポール=マッカートニーのような庶民層出身のスターにナイトを付与したり、といったことにあらわれている(このことは、逆からみれば、上層階級による庶民的なスターの取り込みであるから、当然、庶民層の側から批判も生じている。たとえば、庶民層の代表であるロッド=スチュアートの「同じことをやって俺ばかり批判されるのは彼(ポール=マッカートニー)がナイトだからだろう」というやっかみとも批判ともとれる発言はその現れともみなせるだろう)が、同時にそのような危機意識がジェントルマン的価値観養成の場でもあるパブリックスクールへの批判ともなってあらわれているのもまた事実である。とまれ、イートン校に代表されるパブリックスクールを語る際には、エリート輩出という役割だけでなく、それを支える社会的背景(要するに、ノブレスなくしてノブレスオブリージュなし、ということである)、すなわち、イギリス独自の階級意識の存在および新興ブルジョア層のステップアップと、ジェントルマン層への庶民層の屈折した思いを見落としてはならない。

以上述べた如く、英国パブリックスクールを考えるときに、ジェントルマンと非ジェントルマンという「二つの国民」という身分意識、また、新興ブルジョア層の身分的ステップアップとしてのジェントルマン的価値観教育の役割を考慮する必要がある。さらにいえば、そのジェントルマン的価値観・倫理意識の背景にはキリスト教という宗教的バックボーンと、騎士道精神とヒューマニズムが結びついて発展したといわれる独自の文化的バックボーンがあることも見落とせないだろう。翻ってわが国の今日の国民意識や社会情勢を見るに、ジェントルマンと非ジェントルマンのような歴史に裏打ちされた身分意識を土台としたエリートの範型のようなものが存在するだろうか。英国におけるキリスト教のような宗教的バックボーン、文化的バックボーンが存在するだろうか。はっきりいって、ない、と私は思う。日本人がエリート的倫理の代表として持ち上げる武士道だって、今日では、なんらの身分意識とも結びついていない、いわば、下部構造なき観念に過ぎないのである。そんな明らかに異なる土壌に、パブリックスクールという形だけ持ち込んで上手く行く、と考えるのは、あまりに楽観的に過ぎるのではないか。

もし日本がエリート養成を模索するのであれば、借り物でなく、まずは自国の文化的・社会的背景にあったエリート人格の範型と、倫理意識を支える宗教的バックボーンを探すことから始めなければならない。そして、たとえばそれが武士であるならば校内は常に和服(イートン校の燕尾服のようなもの)で、武士道教育を標榜するくらいのことをやらなければならないだろう。しかし、残念ながら、海陽学園のサイトを見るに、その人格像はあまりに普遍的で逆に具体性がなく、宗教的な事柄に至っては、そのかけらすら見出すことができなかった。要するに、海陽学園には、イギリスから輸入されたパブリックスクール的な仏はあるが、日本という入れるべき魂がないのである。さらにいえば、たとえそこに何らかの魂が入ったからといって、それを支えるべく身分層の現出に耐えるだけの覚悟が国民にあるだろうか。すくなくとも、金がある人が中心となって指導していく社会は私はごめんこうむりたいと思っているし、そうでなくても、エリートにすら親しみを求め、エリートがエリートのまま超然としていることに感情的に反発するのが日本人である。そんな覚悟なんてもてるはずがないだろう。

家庭教育が特に富裕層の間で崩壊している昨今、人格教育も同時に担ってくれる類の私立学校は今後も需要が増えるだろうから、経営という面で言えば、海陽学園が上手くいく可能性は低くない。なにより、日本が誇る商売上手のトヨタがついているのであるし。しかしながら、経営的に上手くいくことと、ノブレスオブリージュを担うべくエリートを輩出することとは別である。そして、私は、後者の点、すなわちエリート輩出の試みという点に限って言えば、上述に述べた土壌の違い・バックボーンが無いという理由から失敗する公算が高い、と結論付ける。英国パブリックスクールや米国版パブリックスクールであるプレップスクールの出身者には常にお坊ちゃん・軟弱者というイメージが付きまとうそうで、現大統領の父ジョージ=ブッシュはそういうイメージを払拭するためにわざわざ元来の選挙区域である東部から荒くれ者が多いというイメージのテキサスに地盤を移したという(前掲『WASP…』より)が、そのような弱弱しいというイメージが海陽を卒業した生徒にも付きまとい、彼らを苦しめることのないよう、祈るのみである。

2006年4月12日

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