不登校・ひきこもり・ニート・いじめを考える
いぢめは無くならない
高坂 相
いぢめられたことが原因と思はれる少年少女の自殺が全國で相次いでゐる。ここ數年はこの種のニュースは餘り聞かなかつたのが、ここに來て突如として社會現象の樣相を呈し始めたのはどうしたことかと思つたら、實はここ數年もいぢめが原因と思はれる自殺はあつたのだが、學校や教育委員會が統計上ないことにしてゐたといふのが實態のやうである。マスコミでは、いぢめに對して適切な對應をせず、いぢめの事實を隱蔽し、遺書を握り潰しさへする學校や教育委員會や行政の體質が批判されてゐる。しかし、單に惡者探しをしてゐても意味がない。ここでは、いぢめ事象を冷靜に考へてみたい。
學校の管理責任・指導責任は當然問はれて然るべきである。福岡縣筑前町立三輪中學校のケースのやうに教師がいぢめに加擔してゐたやうなケースは論外であるが、いぢめられてゐる本人や親から相談が寄せられてゐるにも關はらず、適切に對處しなかつたり何ら對策を取らなかつたりする場合は、學校の責任は重い。特に義務教育では國家の命令によつて子供を學校に預けてゐる以上、學校ひいては國にはしつかりと責任を持つてもらはなくては困る。學校や教育委員會や行政がいぢめを隱蔽するのは自分の任期中に責任を取らなければならない破目になるのが厭だといふ官僚根性によるのだらうが、かういふ連中は子供の教育や保護より保身や自己利益を大事にする外道である。
以上述べたやうに、間違ひなく學校にも問題はある。しかし、學校に管理責任・指導責任があることを前提とした上で、いぢめについて冷靜に考へなければならない。現象に反應して騷ぎ立てたり惡者探しをしたりするのではなく、いぢめの質や内容について客觀的に考へるべきである。それまでひたすら隱蔽してゐた學校關係者が、世論の壓力によつて態度を一變し、事實の客觀的把握もせずに全面謝罪するといふやうな政治的解決は、事態を何ら改善させるものではない。
いぢめの質や内容について客觀的に考へるとは、刑法の對象になるレベルのいぢめと、刑法の對象にならない人間關係の中でのいぢめとを分けて考へるといふことである。まづ刑法の對象になるレベルのいぢめだが、これは犯罪として對處すべきである。加害者が子供だからと言つて割り引いて考へる必要はない。被害者の苦しみは一般の犯罪被害者と同じなのだから、加害者にも大人の犯罪者と同じ態度で臨むべきである。呼び方も、いぢめではなく正しく犯罪と呼ぶべきである。當然、學校が犯罪を隱蔽したり、犯罪が行なはれてゐる事實を知りつつ放置してゐたりするのは、それ自體犯罪に等しい。
問題は、刑法の對象にならない人間關係の中でのいぢめである。たとへば「おまへはキモイから嫌ひだ」と言つて仲間外れにするのは明らかにいぢめに分類されよう。しかし、「キモイから嫌ひ」と感じること自體は仕方がないことであるはずである。自由社會では感じることをやめさせることはできない。そんなことは恐ろしい管理社會でしか不可能である。「キモイから嫌ひ」といふやうなことをはつきり言はないとしても、シカトといふ方法がある。シカトされた方は厭だが、嫌ひな人間に對して友達付き合ひをしないといふのは何の罪に當たるのだらうか。嫌ひな人間と友達付き合ひをしないのは大人の世界では當たり前のことであり、子供だけに誰とでも仲良くしなさいと言ふのは僞善でしかない。人間關係の中でのいぢめにはこのやうな難しさがある。
勿論、クラスといふ閉ぢた世界で、「キモイ」「ウザイ」と言はれ、シカトされ、さらには小さな厭がらせを受け續けることは、子供にとつては辛いことであり、集團でやられるとまさに地獄である。死にたくなつたとしても全く不思議ではない。しかし、冷靜に考へれば、かうしたいぢめを受けて自殺した子供がゐるとしても、それはあくまで自殺であつて殺人ではない。冷靜に認識すべきなのは、人間關係の中でのいぢめはどこにでもあるといふことである。いぢめは大人の世界にもあるし、どこの國にでもある人間社會に普遍的な現象である。日本人は人が死ぬまで知らん顏をしてゐるのに、人が死ぬと途端に騷ぎ立てるが、たまたまいぢめられてゐた子供が自殺したら、多くのいぢめと同じやうないぢめをしてゐた子供たちが急に特別の惡者に仕立て上げられるといふのもをかしい。自殺した子供が惡いとは言はないが、いぢめなどで死んでゐられないといふのが本當なのである。自殺した子供の親が居丈高に學校を批判してゐるのを見ると、それではあなたは親として何をしてゐたのか、と問ひたくなる。學校に管理責任・指導責任があるのは間違ひないが、學校にすべてが把握できるはずがない。最も身近にゐた親が子供が自殺する可能性に思ひを致してゐたならば、相應の對應を取つてゐたはずではないか。緊急避難的に不登校といふ手段も取れただらう。轉校することもできただらう。いぢめる子供の家に行つて直談判することもできただらう。どんな方法を取つても、死なれるよりましであるはずだ。
本質的なことを言へば、人間社會からいぢめをなくすことはできない。勿論、抑止策を講じることは必要であるし、刑法の對象になるいぢめは犯罪として(暴行罪・恐喝罪・脅迫罪・強要罪など)警察沙汰にすべきである。しかし、人間關係の中で生まれる葛藤や對立、前述したやうな嫌ひな人間と仲良くしたくないといふ理由に基づくいぢめは、なくならない。それゆゑ、いぢめは必ずあるといふことを前提にして、子供にとつての社會生活を考へなければならないのである。大人の世界でも、會社や地域、家族内ですらいぢめがある。政治の世界も經濟の世界も、喰ふか喰はれるかの戰ひであり、戰ひに敗れ、疲れた大人たちが、年間何萬人も自殺してゐる。現實はそのやうなものなのである。いぢめ自殺が起ると、他人を攻撃する格好の口實を得たマスコミが學校關係者を糾彈してゐるが、あれも大人の世界のいぢめである。餘り綺麗事を言つてゐると、現實を見失ふ。
學校は子供の將來にとつて必要な場所である。だから、子供が學校で樂しく學べることは望ましいことである。しかし、世の中は思ひ通りにはならないし、樂しいばかりの場所でもない。そこで大人が考へなくてはならないのは、子供が學校で生き辛くなつた時にどうするかである。緊急避難的に學校に行かせないのも一つの方法である。學校教育法には保護者が子供に義務教育を受けさせない場合は罰則も定めてゐるが、今は文部科學省もやむを得ない不登校は認めてゐるやうである。とにかく、子供を守りたければ、親はあらゆる手を盡くすべきである(手を盡くす前提として、親が子供の苦境に氣付くことが必要である)。
とは言へ、子供には子供の社會生活がある。親が子供のそばにずつと付き添つてゐるわけには行かない。いや、親がさうしたければ、そして條件的に可能ならば、どこへでも子供に付き添つてみるのもいいだらう。しかし、小學校そして中學校と、子供は學校生活の中で仲間を作り、同時に個人として生きていくことを學んでゐるのである。親離れして個として自立することを求められる年代なのに親がずつと一緒に付き添つてゐるのは、子供の自立を妨げる行爲でもある。子供も一個の人間だから、保護と過保護のバランスが難しい。子供は子供で、自分が自立していくべき存在であることを知つてゐる。だから、いぢめに遭つても、先生にも親にも言はずに自分で背負ひ込まうとする。子供社會の出來事において問題解決できずに大人に頼ることは、個のプライドに關はることだからである。だからこそ、むしろ自殺を選んでしまふのである。
子供にはいぢめに負けない強さを持つてほしい、といふことが言はれる。やられたらやり返せ、といふ意見もある。私もさう思ふが、さうはできない子供もゐる。また、本人は負けないつもりでも、孤立した状況に置かれれば負けてしまふこともある。また、いぢめた人間たちにやり返すといふ暴力的方法を取ることを潔しとせずに、自らのプライドを守つて死ぬといふ選擇をした子供もゐるのではないか。さうしたことを考へると、實は自殺は負けや逃げとばかりは言へないといふ視點も出てくる。自殺を抗議の意思表示と捉へれば、積極的な行動とも見做せるのである。そのやうに見るならば、自殺は必ずしも敗北とは言へないといふことになるだらう。逆に、もしいぢめられてゐる子供が自殺するぐらゐならやり返さうと思つた場合、いぢめは普通グループで行なふものだから、多勢に無勢、いぢめグループを殺すつもりでやり返すしかなく、反撃は陰慘なものにならざるを得ない。さうすると、今度は一轉して少年の異常犯罪として取り上げられることにもなるだらう。
日本の場合は、人間が孤立してゐる社會状況が問題である。集團で個人をターゲットにする陰湿ないぢめは、社會的連帶と社會的秩序がない状況の結果である。社會は集團で個人をターゲットにする陰湿ないぢめを抑止する策を講じる必要がある。見て見ぬふりをしないことが必要だが、長いものには卷かれろの日本社會の場合、手を差し伸べる人間、味方になる人間が一人もゐないといふ状況が現實にあり得る。子供社會にかつてのやうな餓鬼大將をリーダーとする實力主義的秩序があればまだ何とかなる部分もあるのだが、資本主義の發展の結果としての社會構造の變化や、戰後教育の平等主義と畫一化によつて、傳統的な道徳觀念や社會秩序が消滅してゐる。何の連帶もないバラバラの状況の中で、いぢめのターゲットになつた子供に本當の友達や地域の先輩や頼れる場所や逃げられる場所がない現状は非常に問題であり、連帶ある中間組織を再び作つて行く必要がある。そして、子供に卑怯を憎む心を教へ込まなくてはいけないが、今はむしろ優秀な子供、正義感のある子供が集團によるいぢめのターゲットになるといふから、精神論だけではなく、義侠心が本當に機能する社會を作つて行かなければならない。しかし、社會の再構築はすぐには成らないから、とりあへずは親が主體になつて現在の状況を凌いでいくほかない。
平成18年11月7日
不登校問題に関する一考察
清水一憲・小松慎二
本考察の執筆者二名は、群馬県藤岡市で藤岡緑陵学院というフリースクールを運営している。その活動の中で、現下、大きな社会問題としてクローズアップされている不登校問題に取り組む立場から、同問題を概観する。
まず、不登校生の多くは社会的な偏見とは裏腹に平均的な学力以上の偏差値を持っており、勉強についていけなくて学校をドロップアウトしたのではなしに、学校での人間関係を要因として不登校になるケースが目立っている。一般に、報道などで取り上げられる不登校生像は、その現場にある者からした場合には距離のある姿である。あれは、センセーショナリズムを基調としたマスコミの特質に合致した人物をあたかも全体像であるかのように脚色したものであろう。経験的な印象で言えば、不登校生は学力に於いても情熱に於いても、平均値を上回る個性豊かな人材の宝庫であると考えている。
であるからして、「平均の創造」を命題とする学校教育の性質から逸脱した「上下」の若者が不登校生となる可能性が高い。これは、階級制度に肯定的な欧州のエリート教育を鑑みた場合、かの地では平均以上の若者の受け皿が用意されているのに対し、我が国にはそうした教育環境が整備されていない事への疑念を派生させる余地を持つ。人間が平等であるのは良いとして、その平等を窮屈であると感じる有為の人材と、そこから零れ落ちる若者をどのような受け皿で教育するかという事を前提した場合、むしろこれまで否定されてきた「階層」という概念を肯定的に捉らえ直すべきではないだろうか。さて、私見によれば不登校生を「出来ない子」として甘やかす差別的環境ではなしに、その中にいる「出来る子」をいかにして育て上げるかを思考する事が必要である。しかし、現状のフリースクール一般の運営体制では不登校生を救済するどころか、泥沼を促進する事になっていることが少なくない。言うまでもない事だが、教育とは「甘やかす」事ではなく「鍛える」事である。
だが、そこから「零れ落ちる」全てを忍耐の無い者として扱う事には、違和感を感じる。本質的には、個性ある者がその個性を遺憾無く発揮出来る環境が必要なのであって、我が国には私立校にその兆しが見られるものの、本学院も含めて充分ではない。そうであるならば、個性ある若者達に開かれた、名目だけではなくカリキュラムにそうした概念を盛り込んだエリート校を我が国にカテゴライズする事で、不登校問題の一部は解消するのではないだろうか。
その上で、現状のフリースクールが「下」の若者を許容する受け皿として存立する分には問題は無いと考えている。それはどういう事かと言うと、上述の「平均の創造を命題」とする現在の学校に於いては、そこに「居住」できない「階層」の存在がデモナイゼーションされ、能力以上の要求に応えられない子供達の「由縁」が無視されてしまうからである。それが不登校のみならず、イジメや自殺の要因となる可能性があるとしたら、近代に於いて「幸福の追求」のために普及した学校教育なる存在からした場合に、本末転倒の「成果」を出しているという事になってしまうのではないだろうか。
現状のフリースクールに存在価値を見出だすならば、そうした社会的弱者の存在を「残念ながら」肯定した上で、その救済の受け皿として認知する事だろう。その「救済」が、救済の本質とは掛け離れたものであると知りながら、である。
最後に、教育とは人間が人間を創る事業である以上、誤りは避けられない側面がある。だが、そうであるとしても、この難事業に文字通り命をかけて取り組み、試行錯誤する中で教育の真理を探究しようとする姿にこそ、「教師」たる者の真髄があると信ずる。即ち、「教師」は「教員」であってはならず、「聖職」は「仕事」であってはならない。
現代社会にあって、それはハカナイ理想であるにせよ、若者達の明るい未来を前提した理想であるならば、その理想に殉ずる事が教師の本懐ではないか。例えばの話、汚濁に塗れたこの社会にあっても、そこに若者が生きる限り、私達はこの理想に生きる「一介の教師」である。
学校を信じる事が出来なくなった若者達に、「大人」が絶滅していない事を示す事こそが、不登校を含む諸問題に対し、教育正常化を促す道であると信じている。
■ウェブサイト『藤岡緑陵学院』
■ブログ『學び舎−緑陵の放課後−』
平成18年4月3日