公立中学・私立中学それぞれの問題点
尾崎
当論考は、中学受験算数についてその特徴と教育効果の大きさを中学数学と比べることで明らかにし、結果として、中学受験算数の経験の有無がひとつの教育格差として働いている事実を指摘、現行公教育カリキュラムはその格差を是正するのではなくむしろ助長する方向に働いている事実とあわせて、私立中学・公立中学それぞれの問題点を比較検討するものである。私立中学といっても千差万別だが、基本的には、宗教的な偏りがなく、入試偏差値50台中盤以上(10ランク中6ランク以上くらい)の中堅校、すなわち、公立小学校で出来の良い部類に入る子が受験するたぐいの私立中学を想定していただければよいだろう。この類の私立は、いわゆる「ゆとり教育」への危惧からますます需要が高まっているのが現状で、したがって、公立校との比較が立ちやすい。論の展開上、算数と中学数学、大学受験数学の問題をいくつか取り上げているが、大学受験のやつを除いてそれほど難しい問題ではないので読者の方々にも是非ともチャレンジして欲しい。
中学受験算数の特徴は、「問題を解く手法として、四則演算と図しか原則認められない」、という中学受験算数独自の強い制約条件に由来する。実践という観点からいえば、それは方程式が原則認められない、ということに集約される(もちろん、方程式を立てないと一般的な意味で解けない類の問題は多々ある。あるが、このような問題でも、実質的にはともかく、表面的には方程式を使わないで解かなければならない)。この方程式を使えない、というハンデを克服するため、中学受験算数では数学にはない独特の解法群が用意されていて、表面的にはその存在に、もっと底の部分ではそれらを貫く一つの方針に、中学受験算数の特徴がある。では、その解法群とは、また、それらの解法群を貫く一つの方針とは、いったいどのようなものか。2つばかり例題を挙げ、方程式での解法と算数での解法とを比べることで説明する。
たとえば、まず、以下の問題。
問題1
A氏が旅行に出かけた。まず所持金の1/2を旅費として使い、次に残りの3/5をホテル代に使った。最後に残金の1/4でお土産を買ったところ、1万2千円が残った。最初の所持金はいくらか(『大人のための算数練習帳』佐藤恒雄 講談社より)
複雑な条件の問題であるが、みなさんはこの問題をどう解くだろうか。おそらく、所持金なりをXと置き方程式を立てて解くのではないだろうか。
方程式的解法例
所持金をxと置く。
x * (1 - 1/2) * (1 - 3/5) * (1 - 1/4) = 12000
x * 1/2 * 2/5 * 3/4 = 12000
(3/20) * x = 12000
x = 12000 / (3/20) = 80000
しかし、方程式を使ってはいけない中学受験生は“還元算”という手法で解く。具体的には、まず、線分図を書くことで、問題の比の構造を直観的に把握し、それから、残金を1とおいたときに土産が残金の1/4であることに着目して12000/(1−1/4)=16000として残金16000円を出す。以下、同じように適宜もとの数を1としたときの比を考え、初めにさかのぼっていくと、所持金80000円が導き出される。このように、還元算はなにかあるものを1としたときの比の関係に着目して始まりの値に戻っていく(始まりに還元されていく)解法である。
還元算解答例(線分図略)
土産を買う前の残金を1とすれば土産代は1/4であるので、残った12000円は土産を買う前の残金の3/4にあたる。
よって、(土産を買う前の残金) = 12000 / (3/4) = 16000円
ホテル代を使う前の残金を1とすればホテル代は3/5であるので、残った16000円はホテル代を使う前の残金の2/5にあたる。
よって、(ホテル代を使う前の残金) = 16000 / (2/5) = 40000円
同様に、(初めの所持金) = 40000 / (1/2) = 80000円
(この解法の面白いところは、12000円という「現実世界」の事柄を考察するために、「土産を買う前の残金を1とする比の世界」に事象を還元している点にある。一見、回りくどいように見えるが、この回り道は数学的にはきわめて“有益”である。機会があればいつか)
次の問題。
問題2
3%の食塩水と8%の食塩水を2:3の比で混ぜると、何%の食塩水になりますか(『シグマベスト 有名中学入試を突破する 特進クラスの算数』文英堂より)
何をXと置くか難しい問題であり、文字を使わずとも、「3%の食塩水200gと8%の食塩水300gと考えると、溶けている食塩の量の合計は200*0.03+300*0.08=30gとなり、この量は混ぜたのちも不変なのだから、混ぜたあとの食塩水が500gであることを考えれば、濃度は30*100/500=6%である」と解くこともできるが、計算は結構面倒。しかしながら、方程式の使えない中学受験生は“てんびん法”という手法を用いてきわめて短時間で解いてしまう。てんびん法は「てこのつりあい(左回りと右回りの力のモーメントがそれぞれ等しい)」と「逆比(後述)」の応用であり、実際にとく際には、たとえばこの問題では、てんびんの左端に2Kgの、右端に3Kgのおもりがぶらさがっている図をかき、それがつりあうためには左端の値3%と右端の値8%の間の5%分の区間のどこに支点を設定したらよいか、という風に考える。計算だけ書けば、3+(8−3)*3/5=6となり、%を小数や分数に変換することなくワンステップで答えが求まる。
さて、これら二つの問題に対する中学受験的解法には共通点があるのだが、読者はおわかりになられたであろうか。
そう、両解法とも問題を解くにあたって、“図”と“比”が重視されているのである。論者の言う「解法群を貫く一つの方針」とは、この“図”と“比”の重視に他ならない。何だ、そんなことか、と思われた方も多いかもしれない。抽象的な思考が苦手な小学生のこと、直感的なイメージを喚起できる図のような具体化の手段は必要不可欠であるし、方程式を使えないのなら比を用いて関係を表すのも当然であろう、そんな当たり前のことを特別に取り上げて一体何の意味があるのだろう。しかし、実にこの“図”と“比”の重視の訓練の有無は、その後子供達が数学ないし理系科目を学んでいくにあたって、看過ごすことのできない差を生んでいく。中学数学での一つの例を叩き台にして、その「見過ごすことのできない差」(この差が大学受験数学でどうはたらくかは後述の例を参考に。高校物理でどのように働くかは、原稿末「補足」にて、具体例を一つあげる。ただし、「補足」を読むのは、後述の逆比の説明を理解してからにして欲しい)を説明しよう。
中学数学において円錐の表面積(円錐の展開図は、ある中心角の扇形に、扇形の弧と長さを等しくする円周の円がくっついている形である。以下の理解のために、読者も是非この図を書いてみて欲しい)の公式を初めて求める場合、底面の面積は簡単にもとまるが、側面すなわち扇形の面積Sはその中心角αに依存するので、したがって、まずは中心角αを求める必要がある。そこで、まず中心角α、母線l(側表面を通り、頂点から底面の円周に下ろされた線)ついて式を立てる。
S = π * l * l * (α / 360)
次に、扇形の弧と底面の円周が等しい、という関係に注目し、底面の半径をr、底面の円周をc、扇形の弧をc'とすれば、
c = 2 * π * r
c' = 2 * π * l * (α / 360)
c = c'
上式より
2 * π * r = 2 * π * l * (α / 360)
α / 360 = r / l
α = 360 * r / l
というステップを踏む。
αが出れば、
S = π * l * l * (α / 360)
= π * l * l * (r / l)
= π * r * l
となり、底面積 π * r^2 との和が円錐の表面積の公式となる。
ところが、できる中学受験経験者であれば、上にあるような方程式型の手法はとらない。彼らは、上記の方程式的解法における最後から二番目のステップ、すなわち、いきなり α/360 = r/l という関係を、方程式を立てることなしに、まるで「魔法」のように導き出してしまう。この「魔法」を成り立たせているものこそが、彼らが中学受験算数を必死に勉強することで身に付けた「図における比の構造を洞察する力」と「比的思考(この場合は逆比)」に他ならない。それを今から説明する。
当問題を考察する場合、まず彼らは、「円錐の展開図」と「側面の弧と底面の円周が等しい」および「円の円周・扇形の弧それぞれを求める式」という“事実”(“事実”と書いたのは、大抵の場合、このことは、彼らが図から“発見”したものではなく、知識としてあらかじめ“知っていた”事柄だから)から、比の構造を見出そうとする。そして、すぐに彼らは(側面扇形の中心角α)と(底面の中心角すなわち360度)の比が(母線l)と(底面の半径r)の逆比である、ということに気づく。この事実を文字で表現すれば、それがそのまま α/360 = r/l というわけだ。
と書いても、逆比を知らない人が読めば、何を書いているのか理解できないと思うので、中学受験算数の基本的な逆比の問題を一問考察することで説明を加える。
問題3
駅から学校まで歩いていくのに、Aさんは45分、Bさんは30分かかる。二人の速さがそれぞれ一定であるとして、二人の速さの比を求めなさい。
この問題を10秒以内に解けた人は、逆比的な解法を知っている人、もしくは理解している人であり、方程式を立てた人は、たぶん論者と同じく中学受験を経験していない人である。
速さの比は時間の比 45 : 30 の逆比、すなわち、 1/45 : 1/30 = 30 : 45 = 2 : 3 が答え。
何故そうなるか。代数的に説明すると、Aの速さをA,Bの速さをBとすれば、駅から学校までの道のりは等しいので、 45 * A = 30 * B すなわち 45/30 = B/A 比の形式に直して 45 : 30 = B : A すなわち A : B = 30 : 45 = 2 : 3。(或いは、もっと正確には、道のりをkとおき、kを媒介として高校数学的に考えるべきか。こちらの方が比の伸縮自在な感じが出てかつ三項以上の比の関係にも対応できるので、より適当かもしれない。ちなみに、算数的逆比において1/45,1/30となるのは、もとにする量を1とする、という、中学受験算数の基本方針の徹底のあらわれである)。このように、 A * B = A' * B' が成り立つとき、A,A'の比の逆(正確には逆数の比)がB,B’の比になる、というシンプルなロジックが逆比である。
ここまで書けば、読者の方も「魔法」の正体がおわかりになられたと思う。つまり、例題における「AさんとBさんの時間の比」がすなわち「側面の扇形の半径(つまり円錐の母線)lと底面の半径rの比」であり、「AさんとBさんの速さの比」がすなわち「側面の扇形の中心角αと底面の中心角360度の比」であり、これらが「側面扇形の弧と底面円周が等しい」(例題でいうところの「家から学校までの距離は等しい」)という事実を媒介として、逆比の関係を構成する、その気づきこそが「魔法」の正体なのだ。あらゆる手品同様、タネに気づいてしまえば、少なくとも解にいたる速さについては、全くたいしたことではない。
しかし、ここで論者が強調したいのは、解にいたる速さではない。そもそも、教育の主目的を思考力養成とみるならば、スピード重視の教育方針は、解法暗記への傾倒につながる恐れがあるゆえ、第一義的であってはならない。ならば、強調すべきこととは何か。それは、算数的解法の方が方程式的解法よりも、問題の本質理解、という点でも、有効な脳の使い方という点でもより優れている点なのだ。算数的解法では、まず問題の全体構造の把握が求められ、そのために、やや象徴的にいえば、比を仲立ちにした右脳(全体図)と左脳(式)の連携による洞察が必要である。先の円錐の例でいえば、算数的解法は、円錐の展開図と弧と円周の関係から「扇形の中心角・底面の中心角・母線・底面半径四者の比的関係」を見抜かないことには成り立たない。一方、方程式的解法は、未知数を文字とおき、未知数の数だけ独立な条件式を立てることができればそれで足る。円錐の例でいえば扇形の中心角を文字でおいて方程式を立て、立てた後は、ただ機械的に式を変形していけば中心角が求まる、つまり、その解法の過程においては、側面扇形・底面円の部分をそれぞれ別個に着目することはあっても、全体を構成する両者の比的構造などは把握しなくてもよいのである。さて、どちらの思考・解法がより問題の本質理解・脳の活用という点で効果的だろうか。もちろん、算数的解法の方であるのはいうまでもないだろう。たとえば、次の大学受験問題は某東大生が解けなかった問題で、数学に自信のある人は是非挑戦して欲しいのだが、これなどは、三角形の図から比的関係を読み取ることができなければ、つまり、中学受験算数的訓練を受けたものでかつその後の数学教育でその訓練の成果が消されていないということでなければ、或いは中学算数と同じような効果をもたらす訓練(たとえば体系的な初等幾何教育)を受けた人でなければ、絶対に解けない問題であり、すなわち、中学受験算数的思考の効果的なるを立証する問題でもある。
問題4
三角形ABCにおいて、 BC = a, CA = b, AB = c とし、
AからBCに下ろした垂線とBCの交点をD,
BからCAに下ろした垂線とCAの交点をE,
CからABに下ろした垂線とABの交点をF,
とする。
2 / AD = (1 / BE) + (1 / CF)
のとき、bとcの和をaであらわせ
ところで、この両思考・解法は思考の流れからしても問題への取り組み方という点でも異質である。すなわち、算数的解法・思考は全体的・洞察的であり、方程式的解法・思考は部分的・機械的である。したがって、両者の差は何か量的(たとえば先にあげた解にいたるスピード)な差ではなく質的(たとえば先にあげた脳の使い方・問題への取り組み方)な差ととらえるべきものであるが、もし算数的解法を「中学受験経験者」、方程式的解法を「非経験者」に類比することが可能であれば、この質的差は、両者のその後の数学教育課程における、生徒が自力で埋めることの不可能なギャップの存在となる(もちろん、このような類比が可能であるか否かは検討の余地がある。特に、「中学受験経験者」の皆が皆「中学受験算数」の本質を理解しその教育効果を十全に受けているとはいえず、むしろ、大多数の「中学受験経験者」は解法の暗記に毛が生えたレベルに留まっているというのが経験からくる論者の実感で、したがって、算数的解法=「中学受験経験者」という対応は我田引水的理想化の謗りを免れ得ない。しかし、中学受験非経験者=方程式的解法、という観念化については妥当であることはすぐあとを読めばおわかりになると思うし、理想化自体も、論旨の便宜上、許されるものであることは、最後まで当論考を読んでいただければわかると思う)。なんとなれば、中学受験非経験者が通過してきた・現在通過中である小中公教育において、中学受験算数のような「問題に対する洞察力・図と比を効果的に用いた思考」を訓練する場はほとんどないに等しく、したがって、生徒達は自分で自分を訓練することでしか件の思考を獲得できないからである。しかし、時期的にまだ大人に対する依存心が強く、かつ論理能力も十分でない子供に、そのような自主的な訓練が可能だろうか。不可能であるにきまっている。そもそも子供達は自らの数学的思考の欠陥がどこにあるのかというところからわかっていないのだから。だからこそ、その訓練の場と機会は、あくまで大人の側によって用意されなければならないのだ。だが、現実には、そのような場と機会が大人の側から積極的に用意されることは(中学受験以外は)なく、それどころか、皮肉なことに、ある種の教師や官僚の無理解が、現行カリキュラムにおいてかろうじて点在している訓練の機会さえ奪っているのが現状である。たとえば、公立中学校の現行数学カリキュラムにおいて、「問題に対する洞察・図と比を効果的に用いた思考」が要求されうる単元は初等幾何的な単元、具体的には作図一般・図形と比あたりになるが、作図についていえば、作図はそのほとんどが合同という概念があって初めて論理的に意味を持ちうるものなのに、カリキュラム上、合同を教えられるはるか前に作図は教えられることになっていて、子供達は自分が何をしているのかもほとんど理解できていないまま、ただ、作図の方法のみを学ばされている。図形と比については、補助線を引いてでも相似比に拘らなければ訓練にならないのに、問題を方程式に還元する無理解な教師(もちろん、そうでない教師もいる)の所為で図形的直観の訓練という側面が希薄にされ、かつ、図形的直観と論理性の両方を要求される証明問題は、おそらくは採点しにくいという実務的な理由から高校入試(ひいては大学入試)問題における配点が低く、結果、子供達の動機づけを弱くしてしまっている。論者がいう、「自力での目的意識をもった訓練が子供達にはきわめて難しいというのに、大人の側が本来あるべき・あるはずの数少ない訓練の機会をすら奪っている」とはつまりそういうことだ。これが公教育の現場で行われていることの現実である(官僚がなんとかしてくれる、と思っている人は、官僚のほとんどが東大出であり、つまり、そのほとんどが私立中学受験者ないしハイレベルの公立進学校出身者であることを忘れている。小さい頃から小学校の勉強そっちのけで塾に通い、中学に入ってからも指導要領から逸脱した、大学受験を見据えた進んだカリキュラムの教育を受けて来た人たちが、今まで歯牙にもかけてこなかった一般公教育について真剣に考えてくれている、と思うのはナイーヴに過ぎる。断っておくが、「勉強ばかりで「本当の知恵」が身についていない」、とかそういったお決まりのエリート批判をしているのではない。そういう類の異質化には意味がない。そうではなくて、成功体験にしばられるのが人間の常であり、世間的な意味での成功者である彼らならばなおさら、と言っているのである。かつ、現行指導要領の欠点を書け、ということであれば、論者は当論考くらいの文字数は軽く書けるだろう。実際に、それほど官僚の作った現行指導要領は悪い)。
他方、文部科学省の出す指導要領から自由で、したがってカリキュラム編纂の自由度が高い私立中学では、他私立校との関係から生じる競争原理の下、高校までの5年間(6年目は大学受験の準備期間となるところがほとんどなので)という長いスパンを見据えた効率的なカリキュラムが組まれ、異動や教員免許の有無に縛られない効率的な人員配置の下での教育を、図と比の考え方をみっちり叩き込まれた生徒たちが受けるのである。これで格差が広がらない、と考えるほうがおかしい。経済的理由から誰もが私立中学校に行けるわけではなく、したがって、公教育にはその格差を埋めるべく責務があるというのに、公的機関たる文部科学省・公立中学校は結果としては格差を広げる方向にしか機能していない現実、このような現状で公的数学教育を受けなければいけない子供達の将来に対して、一体誰が責任をとってくれるのだろう。しかも、さらに悪いことに、高校受験や大学受験という現実を真剣に考えている子供ほど、その格差を埋めようとして解法暗記中心(いわゆる「青チャート式」)のがり勉に走りやすい。そのような子供の未来は大別して二つ、一つは反動から大学生・社会人になったとたんに全く勉強しなくなる大人か、答えがないと不安で仕方が無いマニュアル型の大人と相場が決まっている。両者共に共通しているのは思考の自立性の欠如であり、つまりは、現行の数学公教育システムは、真面目な子ほど考えない駄目な大人にしてしまうという性質の悪いシステムなのだ。他国の数学教育の現状はほとんど知らないが、日本のそれは絶対値として悪い、と断じていい(勉強だけが人生じゃない、というかもしれないが、だからといって、子供達が大人になって自分の意志で何かを知ろう、やろうとしたときに少しでも手助けになる力を養ってあげる責務を、大人が放棄してよい、ということには絶対にならない)。
以上、受験算数と数学の違いから、私立・公立双方の数学教育における格差を指摘してきた。過程、公立の問題点を強調する目的で中学受験や私立中学の良いところを半ば理想化して特にピックアップしてきたため、読者の中には私立中学の絶対的優位を確信した方がおられるかもしれない。また、そのような人の中には、論者に対してある種の反発、すなわち、論者が経済格差による教育格差を容認しているという風に読み取り、拝金主義に対する反感も加えて、そのまま論者に反感を抱いた方がいるかもしれない。だが、実際はその逆で、もし論者に子どもがいるならば、我が子を私立中学に行かせることは絶対にないだろう。なんとなれば、ある意味、中学受験ないし私立中学校が抱える問題点の方が、公立のそれよりも性質が悪い、と考えるからだ。では、その性質の悪い問題点とはいかなるものであるか、以下に述べる。
まず中学受験の問題点について述べるに、その根本は、勉強すべき内容があまりに広範で、方法論的で、かつ、子供に原理を説明できない・子供が理解できないものが多い、ということにある。たとえば、中学受験算数の特殊算は、論者がざっと頭の中で数えただけでも10個は浮かぶほどで、多分、実際は15を越えるくらいの数あって、本質的にはこれらの特殊算のほとんどは比ないし方程式の変形にすぎないが、現実には、子供達は、これらの解法を、全部ではないにせよそれぞれが独立したものとして覚えなければならない。なんとなれば、算数の中学入試は時間が短いため、問題を眺めた瞬間に解法が浮かぶくらいでなければ全部解く前にタイムアップということになってしまうからだ。この時間が足りない、という点に関しては、日本で初めてフィールズ賞を受賞された数学者の小平邦彦氏がある機会にある中学の入試問題に挑戦したところ時間内に全問を解くことができなかった、というエピソードがあるくらいだから相当なものである。ならば、合格という点からプラグマティックに方法論を組み立てれば、解法の暗記に走るのは必然であろう。
この勉強すべき内容が広範で方法論的である、という点は算数だけでなく社会も理科も同じで、受験社会では県名・県庁所在地とその特産品、工業・地理の特長から日本の歴史(今年の某私立中学の問題では、五稜郭に立てこもって新政府軍に対抗したが、後に降って政府の高官を務めた人物は?という問題が出てきた。もちろん、これは極端な例だが、かなり細かい知識まで要求されることの具体例とはなるだろう)国連のこまかな仕組みまで、受験理科も地学・化学・生物学・電磁気学・力学・植物学から人体の構造などなど範囲は膨大で、かつ、受験理科のある種の電気回路の問題(豆電球が直列と並列が組み合わさった形で配置されている回路がいくつかあって、その中から同じ明るさの豆電球を選び出す問題など)が高校物理で習うキルヒホッフの法則を使わなければ解けなかったりするくらい方法論的である。特に受験理科は、原理が子供の理解能力を超えている、というケースにおいて、受験算数よりもはるかに数が多いように思える。たとえば、先のキルヒホッフもそうだし、はかりの上に水の入ったビーカーをおき、そこにばねにつるした物体を水に浮かせれば何故はかりの値が浮力分だけ増えるか、ということを子供に理解させるのは不可能であるし、また、つりあったてこの問題で、鉛直方向の力の総和と力のモーメントの総和がそれぞれゼロにならなければいけないこと・そもそも力のモーメントとは何か、ということ、電気回路では豆電球を直列に繋ぐよりも並列に繋いだほうがより明るい、ということを理解させるのは不可能であろう。このように「勉強すべき内容があまりに広範で、方法論的で、かつ、子供に原理を説明できない・子供が理解できないものが多い」のが国語以外の中学受験科目の特徴で、要するに中学受験勉強は、その多くを暗記に頼らざるをえない、ということである。暗記の弊害は今まで散々書いてきたので読者も半ば飽きておられるかもしれないが、その弊害がもっとも頭のやわらかい時期にこそ最大に達することは強調してしすぎることはない。ましてや、この時期の子供は、精神的にまだ弱く、親への依存心が強い。そのような子供達にがり勉させることの残酷さ・精神的負担の大きさを思えば、中学受験そのものが抱える問題点の大きさを測り知ることができるだろう。以上が論者が言う中学受験の弊害であるが、そのなかでも、最後に書いた子供に与える精神的負担の大きさは特に強調したい。
次に、私立中学の問題点について述べる。
私立中学の問題点は、その経済的な負担の大きさに加えて、落ちこぼれをケアしない、というその教育方針にもある。私立中学の普通レベルのクラスでの授業内容は、その平均的生徒の学力よりも高めに設定しているケースがほとんどで、なんとなれば、親が重視する私立中学の「格」を決める一つのファクターが大学受験実績であることから、学校にとっては、平均以上の内容を教えて落ちこぼれがでることのマイナスよりも、平均の子を平均以上に押し上げることのプラスの方が経営上はるかに重要であるためである。かつ、これは実際に生徒を教えたことのない人にはピンとこないかもしれないが、平均から一度落ちてしまった子を教える労力は傍目から見る以上に大きい。なんとなれば、平均から落ちこぼれてしまった、という事実が子供達から自信を奪ってしまっているため、まずは子供に自信を取り戻させることが必要なのであるが、そういう子の親は大抵必要以上に危機意識をもっていてことあるごとにそれを子供に披瀝するため、自信を回復するどころか、さらなるプレッシャーにますます自信を失っていくケースがほとんどだからだ。一方で子供の自信を回復させるべくケアしながら、他方で教えなければいけない内容はしっかりと教えていく、これは本当に「コストのかかる」ことなのだ。だからこそ、コスト意識の高い私立中学校ほど、落ちこぼれに対してはほとんど手を差し伸べない。アリバイ作りに再テストをやったり、といったことがせいぜいである。我が子に限って落ちこぼれるようなことは、と思える人(ある意味、こういう親がいるから、私立は落ちこぼれをケアしないですむ)はよいだろうが、落ちこぼれた我が子を携えてぼったくり塾に駆け込むお母さんの切羽詰った顔をたくさん見ている論者には、そのように楽観することはとてもできない。
以上、私立中学受験・私立中学の問題点の性質の悪さはご理解いただけたと思う。大抵の場合、中学受験は親のエゴ(見栄・学歴信仰・安定化志向など)のあらわれであり、親のエゴで子供にリスクを負わせるのは愚かなことであるばかりか、罪なことですらある。上にあげた性質の悪い問題点にそういった意味も含めて、論者は中学受験に関しては、一面に見られる教育効果の高さを評価しつつも、全体としてはリスクの大きいものとして否定的な立場による。他方、先に述べた如く、公立には公立なりの悪いところがあり、それはひとことでいえば、教育という事柄に関する文部科学官僚および教師の側の無理解に由来する。では、親は公立・私立のどちらを選択すべきであろうか。
あくまで個人的な意見だが、公立の側のリスクは、親の側の理解と、親が教育に対して自ら時間を割くことでなんとかなる面もあるように思える。たとえば、子供を公立にやるにせよ、勉強の動機付けのために中堅レベルの私立中学を受けさせてみる、とか、あるいは子供と一緒に算数の問題に挑戦してみる、とか、幾何の問題を集めた軽い感じの本(論者は良著を何冊か知っている)を買い与えて一緒に挑戦してみる、とか、そういったことだけでも公教育の害悪はだいぶ中和される。なんにせよ、肝心なのは、親の側も積極的に教育に参加することだ。物理学者ファインマンの父親は、様様な物理現象に興味を示す子供のため、自らいろいろな実験をしてみせ、かつ、子供と一緒にその現象の背後にある原理を考え、学んでみせたという。また、練習に取り組む真摯な姿勢こそが大打者・イチローの原点であるが、彼の練習に対する態度は、どんなにいそがしいときでも子供の野球の練習に時間を割いた父親の姿に負う所が大きいように論者には思える。人にはそれぞれ事情があり、誰もがファインマンやイチローの父親のようになれるわけではないのだろうが、しかし、ファインマンやイチローの父親の如く、我が子の教育に関して、自らお金以外のものを捧げる努力を惜しまない覚悟、自分の子が受ける教育内容について調べ、学び、時と場合によっては自分で責任を持つ私的教育の覚悟、教育を公や塾(昨今の塾講師のレベルは親が考えている以上に低いし、大手も零細も、営利追求についてはその辺の企業も真っ青なくらい熱心である)に丸投げにしない覚悟をもてるのならば、公立も決して悪くはない、と論者は考える。なんとなれば、公教育には子供を追い詰めない「ゆとり」があるから。
まあ、考え方は人それぞれ、どちらを選ぶにせよ、上で述べたようなそれぞれのリスクを把握してからにすべき、と主張して(いわば問題を問題のまま丸投げにして)、論考を終わる。
※補足
高校物理“波動”の例
波の速さをV、振動数をf、波長をλとすれば、
V = f * λ
の関係式が成り立つ、というのが高校物理・波動分野における基本である。
波の速さVは媒質に依存するから、空気中を伝わる波の速さはとりあえず一定と仮定してよい。
ならば、空気中を進むある波についてその速さVと振動数fと波長λの値が既知であれば、別の波は、振動数f'か波長λ'のどちらかが既知であれば基本式が確定できる。たとえばf'が既知として、
V = f * λ
V = f' * λ'
より
λ' = λ * f / f'
もちろんこれはこれでよいのであるが、しかし、比と図の考えがしっかりしたものならば、このVの二つの式から振動数の変化は波長にどう影響しているか、つまり、振動数がn倍になれば波長は1/nになる、ということを逆比の関係から理解できる。波の図でいえば、これは、波源から波が出て一秒後、すなわち、一定の幅Vにおいて、波の山の数が増えるとそれに反比例する形で山から山までの距離が縮められる、砕いていえば、幅に波が押し詰められる、というイメージとなる。このイメージは、ドップラー効果、特に波源が動く場合のドップラー効果(救急車が通過する前と後で音の聞こえ方が変わってくるあれ)の理解において重要な役割を果たす。図が使えないので、以下の波源が動く場合のドップラー効果の説明は非常にわかりにくくなっているかもしれない。そうであれば、時間は貴重、飛ばし読みするか、読むのをやめていただければ幸い。
速さV、波長λ、振動数f0の音波を出す音源が静止している人に向かって速さv(V > vとする)で近づいているとする。もともと音波は空気分子の単振動に由来し、したがって、波源が動いているからといって、波源の速度と音波の速さの和を取る事はできない。初めの単振動による圧力は波源の動きに影響されることなく伝播していくのであれば、音波の速さVおよびもともとの振動数すなわち波源が一秒間に出す波の個数f0自体は変わらない。つまり、一秒間の幅Vの中にf0個の波があるイメージである。ところが、静止している人からすれば、波源が自分に速さvで向かってきているため、本来1秒間に自分を通過するはずのf0個の波は本来の1秒間の幅Vよりもvだけ短くなった帯の中に“押し込められ”、帯が短くなった分vに入っている波の数だけ余計に自分の前を波が通過する、つまり、より高い振動数(周波数)の音を聞くことになる。(このイメージを持つのは、上で挙げた逆比からくるイメージを持っていなければ難しい)。では、その余計に通過した波もあわせて、合計一秒間にいくつの波(f個とする)を聞くことになるか。最短の解法は、おそらく問題を小学校算数風に
問題5
V - v の幅の中にf0個の波があります。波は幅の中に均等に詰まっています。V の幅には何個の波が詰まっているでしょう
と還元することだろう。求めるものを□とすれば、
(V - v) : f0 = V : □
内項の積と外項の積の関係より
□ = V * f0 / (V - v)
すなわち、この□こそがもとめるfであったから、
f = [V / (V - v)] * f0
しかしながら、“同じ数の波が短い幅に押し込められた”という事実から波長の短縮を見て取って(逆比!)、本来の帯Vを短縮された波長で割って求める見方は、計算は大変面倒になるし最後に恣意的な式変形を行わなければいけなくはなるが、ドップラー効果の理解という点では先の解法より優れている。
V = f0 * λ
V - v = f0 * λ'
から
f0 = V/λ
f0 = (V - v) / λ'
以上より、1 / λと1 / λ'の逆比すなわちλとλ'の比がそのままVと(V - v)の比であるとわかる。
λ' = {(V - v) / V} * λ
一秒間の帯Vは変わらないので、静止している人が聞く振動数すなわち波の数をfとすれば、fはVを新しい波長λ'で割ったもの、すなわち、
f = V / λ' = V / {[(V - v) / V] * λ} = [V / (V - v)] * V / λ
V / λ = f0 より
f = [V / (V - v)] * f0
どちらの解法も中学受験算数の感覚を必要とするのは理解いただけたと思う。この感覚がない子は理解に長い時間を費やす(それはそれで有益ではある)か、公式を丸暗記する(これは無益どころか“悪益”ですらある)しかない。
2006年2月11日