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論泉 RONSEN

科目横断学習の研究


理科離れと「社会と理科をつなぐもの」

尾崎

社会と理科といえばそれぞれ文理を代表する科目と捉えられている。

実際、理科系科目と社会系科目の得手・不得手で理系学部にいくか文系学部にいくかを決める受験生も多い。

高校の科目はそれなりに専門化された科目がほとんどでありそのようになるのは仕方の無いことだが、しかし、理科と社会とをもっと一般的なものとして捉えたとき、つまり、小学校レベルで社会と理科を考えたとき、実は両者はある面で非常に密接した形であらわれる。その面とは、すなわち地理であり、私は、この地理にこそ、子供達の理科離れを防ぐ鍵がある、と考えている。

例1

たとえば、小学校5年生の理科では、河川による侵食・運搬・堆積作用について学ぶ。

具体的には、流れが急な上流ほどより侵食・運搬作用が強く、逆に流れが緩やかな下流では堆積作用が強くなる、ということから上流〜下流における堆積物の違い等を説明するもので、要するに上流にいけばいくほどごつごつした大きな石が多くなる、とか、上中流では河原から遠ざかるほど底が深くなる、といったことを多少の原理を交えて説明しているわけであるが、ここにほんの少し地理的な考えを加えれば、とたんに社会が見えてくる。

たとえば、山梨県や山形県では果物の生産が盛んで、そのほとんどは盆地で栽培されているのだが、なぜかといえば、盆地には稲の栽培に適さない、水もちの悪い扇状地が形成されやすいからである。

ではなぜ盆地には扇状地が形成されやすいか。それは、山地から盆地に入る川を考えたときに、盆地のへりにあたる部分において傾斜が急に緩やかになることで川はその運搬力を弱められ、長い時間をかけて、氾濫等で運んでいた砂礫を扇状に堆積していくからである。扇状地を構成する砂礫は目が粗いため水はけがよく(水もちが悪く)、水田を作って主要作物である稲を栽培するには適さない。

したがって、盆地の人たちは、次善の策として水はけの良い土地での栽培が可能な果樹等の生産に傾斜せざるを得ない。だから、甲府盆地や山形盆地を有する山梨や山形では果物の栽培が盛んなのである。

例2

或いは、同じく小学校5年理科では低気圧・高気圧等の気象現象について学ぶ。

具体的には、低気圧は天気が悪い、とか、天気は西から東に遷移していく、とか、台風は中緯度付近で北東に進路を変えて進む、とかいったことを学ぶわけである。

気象現象の多くは気圧の差によって生じていることから気圧について簡単な説明(気圧とは空気が何かを押す力の度合いであり、したがって、空気は気圧の高いところから低いところへと移動していく、つまり、風が吹く等)をした後に個々の現象について説明(暖められた空気は膨張して“軽く”なることで上昇し、上昇した空気がもといた場所は周りと比べて空気が少なくなっているので、したがって、周りの空気よりも押す力も弱くなっている。

つまり、そういう場所は相対的に低気圧となり、周りから風が吹き込んでくる。四方から吹き込んできた風は行き場を失い、上昇気流となる。海面で生じた上昇気流は湿った空気を上昇させ雲を作るので低気圧では天気が悪い、等)を加えれば大抵の事柄は納得してくれるのだが、他方、このような高気圧と低気圧の原理は社会で言うところの東北地方に冷害をもたらす「やませ」や豪雪地帯が北陸地方に集中していることに原理的な説明を与えてくれる。

「やませ」は冷たく湿ったオホーツク海気団からなる高気圧から来る北東風であるし(同時にオホーツク海気団のできる原因とそれが梅雨の一原因となっている事実も説明するとよい)、日本海側の豪雪は、陸と海の冷め方の差(陸は熱しやすく冷めやすいことから、冬の陸地は海地と比べて相対的に空気の温度が低く、したがって、高圧部が形成されやすい。

要するに、沿岸部で夜に陸から海へと風が吹く現象すなわち「陸風」と同じ)によって大陸上に高気圧と寒気団が生じ、できた寒気団が南下して相対的に暖かい日本海から水蒸気を取り込んで雲を発生させ、その雲が高気圧からの風の流れに乗って北陸に向かうことで生じているのである。

以上、二つの例を挙げて見たが、文字で長々と書くと非常にわかりづらく、ここに書いたようなことを本当に小学生が理解できるの、といぶかしむ人もおられるかもしれない。だが、実際に上に書いたようなことを多少砕いて簡単な絵を交えて説明するだけで、ほとんどの子供は理解・納得してくれるし、そればかりか、勉強した内容と現実とがつながりを持っていることを知って喜んでくれさえもする。

彼らの立場からすれば今まで全く別の事柄として単に暗記していたものが知識としてつながったのだから、その反応は当然なのだが、肝心なのは、上に書いたような理屈を子供達に一方的に押し付けるのではなく、また、いかめしい固有名詞に拘らずに、質問を交えて上手く結論までの論理に乗せてやることである。内容云々よりも、実はこっちの方がはるかに難しい。

或いは、上に書いてきたようなことを理解して説明できない教師もいるのではないか、と思われる人もいるかもしれない。しかし、上に書いてきたことは、実は大学受験用の地理の参考書であれば必ず書いているレベルのことであり、普通に勉強すれば容易に理解できる事柄なのである。ましてや教職に就いている・勉強を生業としている人間が理解できないはずはない。もしできないとすれば、それは教師の知能の問題というよりは、たぶん、理科と社会は全く別物である、という偏見の所為であろう。

元来、社会と科学は地理を媒介として密接な関連性をもっていた。暦法の礎となる天文学はもともと河川の氾濫時期や作物の収穫時期を見極める必要性から生まれたものだし、図形の科学たる幾何学が発達した理由の一つは、おそらくは氾濫による地形の表面的変化によって土地の権利関係が不安定にならないように、という当時の社会的要請にある。

昨今、子供達の理科離れが叫ばれて久しいが、その根本の原因は、理科の教育カリキュラムが現実との対応を欠いた浮世離れしたものになっていて、結果、子供達が興味を持てなくなっていることにあるように感じる。ならば、理科離れへの対策として本当に有効なのは、理科が元来持っていた現実とのつながりを回復させ、子供達に提示することであろう。学問としてより専門化・抽象化された理科は、子供達の論理能力が発達した中学校以降で教えても全然遅くはないのだ。

理科離れへの危惧から子供達に理科的知識を詰め込むことを急務と考える識者は多い。しかしながら、それは事象を質的に捉えられない者が陥る量偏重思考の典型に過ぎず、詰め込みはさらなる理科嫌いを増やすだけである。そんなことをするくらいなら、むしろ小学校の教師に地理の学習を義務付けたほうがはるかに有益なのだ。

理科離れへの最も効果的な対策は、地理を媒介とした理科と社会の結合カリキュラムにあり、電気のように専門性が高く社会とつなげにくい分野は中学校以降に回すことにあると私は思う。

<付記>

気象についての説明で、台風の動きと社会との関わりがなかったことに気づかれた方もおられると思う。もちろん、台風現象は社会の分野に属するある知識と密接にかかわりがある。ただし、それは小学校の社会というよりは高校の地理そのものに関わる事柄であり、具体的には世界の気候分布を決定する地球規模の気象現象なのだが、かつ、その原理を理解するためにはコリオリの力という「見かけの力」についてある程度理解しなければならず、さらには地平面を地球の接平面と捉える感覚が不可欠であるため、ここで取り上げるのは不適切である、と判断した。

もっとも、コリオリの力は地球儀とテレホンカード等で実際に示して見せれば子供達にも容易に理解できる事柄であり、地平面を接平面と捉える感覚は実は小学校4年の月の満ち欠けや太陽の動き等の単元で養われるべき感覚であるから、台風が中緯度付近で北東に進路を取る、ということから社会的知識へと発展させても別段支障はない、と個人的には思う。

だが一方で、むしろそれらの社会的な知識は、たとえば世界地図を見せて砂漠地帯が北緯何度から何度までの間に集中しているかを発見させ、然るのちにその原因を誘導しつつ教えていったほうが教育効果がはるかに高いようにも思え、判断の難しいところではある。

2006年3月5日

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