正しい知識に基づく議論を構築し、真実を探究するウェブ言論誌

論泉 RONSEN

皇位継承論考


女帝問題とジェンダーフリー

清水一憲

表題の件について、愚見を述べさせて頂きたいと思います。

今般、左派陣営はもとより、保守陣営からも女系天皇容認の声が高まっています。紀子様のご懐妊により、そうした声は一旦沈静化しましたが、女子誕生の可能性も内包しつつ、仮に男子誕生の場合も現在の体制ですと数十年後に同様の議論が発生する可能性がありますので、そうした状況も踏まえながら筆を進めたいと思います。

まず、我が国で最も保守的な視点に立つ憲法学会所属の藤本隆史先生が「八重垣」第十四号に於いて「女子の天皇を認めても良いと考えている」と述べ、その文末で「皇室に親王が誕生していないという事実自体に天意が働いていると考えては如何か」との見解を披瀝されました。

同学会内では小森博士が女系天皇容認論を打ち出しており、それに呼応するかのような言説が散見されます。

しかしながら、例として藤本先生の言われる「天意」とは、天皇の血のスペアである宮家の数を減らし、側室制度を後進的価値観であるとする戦後民主主義を我が国にもたらした存在の意志なのではないでしょうか。即ち、アメリカの望みであると考えます。そうした経緯がありながら、それを自覚的であるにせよ、無自覚的であるにせよ、「天意」とまで認識するに至っては植民地根性ここに極まれり、の感がいたします。ですから、その「天意」を汲み取る事は、アメリカの占領政策の「意図」を承認してしまう事に他ならないのではないでしょうか。

私自身は、臣民の身でありながら天子の御位を云々するという事に畏れを感じます。女帝問題は、そうした感覚を喪失させ、「皇室の維持の為」に議論に参画する事が「錦の御旗」となっています。従って、同問題を軸として、保守派からの攻撃で概念としては瀕死の様相にあるジェンダーフリー勢力に復活の機会を与えかねない危険を感じています。ジェンダーフリーは男女間に階級を設定し、あたかもプルジョアジーとプロレタリアートの闘争がそうであったように、男性なる「貴族階級」への闘争を扇動する共同体破壊の概念です。こうした事に想いを致した時、善意の研究を以て女帝問題を訴える方には、その善意に寄生する悪意の存在には充分な警戒をお願いしたいと思います。

私は旧宮家の皇籍復帰・側室制度の復活が、女帝容認より皇統の維持に役立つと考えています。本来なら口を差し挟むのは不遜であるとは知りながら、かかる状況に於いては反撃するしかない時代の不幸を嘆きながら、です。

また、皇室の自立経済なる珍説も散見できますので言及しますが、我が国は立憲君主制であり、皇室は政治活動にタッチしない事になっています。皇室が英国王室のような経済活動を解禁された場合、「皇室ブランド」に群がる者達が現れ、その利益を政治献金などの形で反映させる危険は無いと言えるでしょうか。更に、文化支援として短歌の集まりを主宰しているなら平和的ですが、古武道や剣道・柔道への資金的援助や直接の運営などを始めた場合、優秀な人材が菊の御紋を付けて、柔道の場合は五輪や世界大会、その他も国際親善試合で華やかに活躍する内はいいとして、「裏の実戦部隊」が編成され、退役自衛官などを主体とする「天皇の私兵」が生み出される危険は零でしょうか。色んな事を考える人間がいるのですから、改革を唱える時には広い視野で物事を見なければなりません。

現在の皇室の体制は立憲君主制に適うもので、皇室の自立経済という考えは立憲君主制に反するばかりか、皇室と政治の在り方に対して歴史的経緯を無視した無教養の極みであると考えます。

以上の見解を女帝問題に於ける私見とし、筆を置きます。

最後までお読み頂いた方に御礼申し上げます。

■追記

私見ではありますが率直に言って、英国は「立憲君主国家」を号してはいても、それは内実を伴っていないと考えます。即ち、英軍は「女王陛下の私兵」であり、突撃の際に「女王陛下のために」との指揮官の号令が枕言葉となるのは有名な話です。また、アルゼンチンとの紛争の際には時の首相・サッチャーに、女王から子息の出陣を見逃して欲しいとの連絡があったのは事実です。結局、出陣はしているものの、「君臨すれども統治せず」とは英国王室の本質とは距離のある感覚ではないでしょうか。これは、卑俗な言い方をすれば「お前らに食わせてもらっている訳ではない」という自負を前提にした感覚、と言ったら言い過ぎでしょうか。この事から経済活動の解禁は、皇室と国民を乖離させる可能性があります。そして、独自の経済力を持った王が政治活動に関与しないという事は、君主の「個人の良識」に基づくもので、賢君を戴いた場合はともかくとして、悠久の歴史を担保する事を前提するならあまり勧められるものではないと思います。

立憲君主を唱えはするが、実態は絶対王制の名残りを持つ。それが英国王室の偽らざる本質であり、その「自信」は独自の経済活動を行える前提あってのものと考えます。因みに、その事から派生する傲慢が、英国民からの王室支持率が我が国の皇室に比較して低い要因だと認識しています。

平成18年3月24日

このページの上へ


天皇の権威について

北野英明

正統性と正当性について

皇位継承とは何でしょうか。天皇は日本の象徴ですが、そもそも「天皇が継承するもの」とは一体何でしょうか。「政治権力」でしょうか。「富裕財産」でしょうか。このような「現実を動かす力」を天皇は特に持たないように見受けられます。

日本国憲法第四条によれば、天皇は「国事」を行い、「国政」は行いません。また、同憲法第八条によれば、天皇は財産授受に関する「制限」を受けています。この「権力と財産に関する制限」と「国事を行う資格」こそ天皇のみが持つ特徴であると考えられます。一般人はこのような制限も資格も有してはいないからです。

では、この国事行為とは何でしょうか。日本国憲法第七条には、10の国事行為が記されていますが、その機能は全て「認証」つまり、正当性に関わることです。「国家の正当性に関わること」これが「国事」の意味であるに違いありません。その証拠としては、これらの国事行為には天皇ではなく、「内閣が責任を負ふ」ということを挙げれば十分だと思います。これは正当性を付与する行為自体には責任はないということを示唆しています。(この問題は重要なので、稿を改めて論じたいと思います)

天皇が継承しているものは、「正統性」であると私は考えています。これには説明が必要でしょう。正当性とは「道理に適っていること」ですが、正統性とは、「系統が正しいこと」です。つまり別なものなのです。整理すると、「正統性を持つ天皇が国家に正当性を与えている」ということです。ここでは、天皇の正統性を疑うということは、系譜を疑うということであり、正当性を疑うということは、日本国における地位を疑うということである。つまり別々なことなのだということを覚えておいて下さい。

日本国の存続について

問題は、天皇の正統性が日本国に正当性を付与するかどうかということだと思います。これを認めない人は、天皇の権威を疑っていることになるでしょう。ここにおいてようやく議論の土台となるものを見出すことができたように思います。つまり、皇位継承においては天皇の権威を認めるかどうかが問題になっているのです。日本国の正当性が失われるということは、日本国の存続に関わる大問題です。では、天皇の正統性は日本国の正当性とどういう関係があるのでしょうか。

日本国憲法第一条には、天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づくと書かれています。これは、天皇の正統性が日本国に正当性を与えているのではなく、日本国が天皇の地位に正当性を与えているということを意味していると考えられます。これを認めるならば、日本国憲法は天皇の権威を認めていないということになるのではないでしょうか。

天皇の正統性が失われようとも日本国の正当性は失われないならば、皇位継承の問題は日本国の存続に関わる問題ではないことになります。では、日本国の存続が脅かされた時、最低限護らなくてはならないものとは何でしょうか。敗戦直後こそ、その重要なサンプルであると考えられます。国民の主権は果たして尊重されていたでしょうか。それどころか、国民の主権を護ろうとした人はいたのでしょうか。

国民の主権こそ日本国に正当性を与えているという考え方には大きな矛盾があると考えています。つまり日本国憲法は主権の存する国民の総意に基づいていると言えるのでしょうか。もし日本国の正当性が日本国民の総意により与えられているというのならば憲法を新しく作る必要があるはずです。現行憲法にはこの点大いに疑問があるからです。

しかし、天皇の正統性が日本国に正当性を与えてくれているのならば、憲法などどうでも良いと考えられます。現行憲法の正統性が疑われようと、日本国の正統性を疑う人はいません。日本国が大日本帝国の正統な後継国家であることは、憲法の正統性により保証されているのではなく、天皇の正統性により保証されていると考えればこれらのことは別に不思議ではありません。

伝統と正統性について

日本国が日本国であるのは、伝統に基づいています。これは日本文化のことを言っているのではありません。日本国の領土は伝統により定まっています。国語も国民もその財産も負債も先祖から継承されてきたものなのです。外国人が日本に入国するには許可が必要ですが、日本国民は許可を得ることなく日本国に居住することができます。伝統に基づく正統性とはこのようなものなのです。そしてこれらは基本的には先祖から継承してきたものであることは言うまでもないでしょう。

何故日本人はそのような権利を有しているのでしょうか。これが正統性の問題です。正しく継承されたならば、正統性を有していることになります。親から受け継ぐことの正当性を疑うならば、日本人がその先祖から受け継いだものの正当性も疑わなければならなくなるでしょう。権利の正当性を疑われるということは危険なことです。いつ奪われるかわからないということなのですから。

正統性こそ正当性を保証するものです。正当な後継者こそ、全ての権利を引き継ぐものなのです。日本国は大日本帝国の後継国家だからこそ、その権利である領土・国民・財産・負債を引き継ぐことを認められたのです。もしいつか日本国が消滅するとしたならば、後継国家が存在せず、その継承を認められなかったということになるでしょう。お家の断絶とは、後継者が不在であるということなのですから。

領土あれど伝統は滅び、子孫あれど日本国は存在せずとは、日本の伝統が継承されなくなった時のことなのです。では、伝統が継承されるとはどのようなことなのでしょうか。日本国の伝統は継承されているでしょうか。我々は何を護るべきなのでしょうか。明治憲法は護られませんでした。大日本帝国の意思は継承されませんでした。では、何が継承されたのでしょうか。皇位継承とは、このことを問題にするべきであると考えます。

護るべき伝統とは神話でしょうか、それとも天皇でしょうか。皇位の継承者が男系に限られているのは何を意味するのでしょうか。日本の正統性について考えることは我々日本人が先祖から継承してきたものについて考えるということでもあります。正統性を疑われることは恐ろしいことであり、伝統を疑うことは怖ろしいことです。疑わないで済むならば、その方が良いでしょう。

皇位の継承に根拠などあるのでしょうか。根拠はなくても正統性を有する。これが私の回答です。天皇の正統性に日本国の正当性が懸かっているのであれば、馬鹿馬鹿しく思えても継承のルールは変えるべきではありません。根拠がないからこそ譲ってはならないのです。神話を信じる人は少数派でしょう。なのに天皇の権威を認めるのは伝統だからです。つまりずっとそうだったからというのが理由です。それ以外に理由など必要ないのです。以上。

平成18年4月17日

このページの上へ


皇室と國民の關係について

高坂 相

はじめに

昨年平成十六年十一月に小泉純一郎首相の私的諮問機關「皇室典範に關する有識者會議」が出した報告に基づき、本年三月、政府が通常國會に女系天皇を容認する皇室典範改定案を提出しようとしてゐることが傳へられるや、國民の間から反對論が沸き起こつた。小泉首相は多くの保守派や皇族に到る愼重意見、反對意見に耳を貸さず、皇室典範の改定を強行する姿勢を見せたが、國會開催直前の秋篠宮妃殿下の御懷妊により、會期中の改定案提出を斷念した。

過熱氣味であつた皇室典範改定論議は、秋篠宮妃殿下の御懷妊によつて一旦鎭靜化したが、これで皇位繼承の問題が解決したわけではない。たとへ秋篠宮家に男兒が誕生したとしても、皇位繼承資格者が極端に少ない現状に變りはないからである。皇室典範改定論議は再び持ち上がつてくるであらう。この問題について、私たちはどのやうに考へればいいだらうか。弊誌では、創刊と合はせて勉強會を開催し、第一囘のテーマとして「皇位繼承」を取り上げた。討論掲示板で樣々な意見が交され、私も觸發、裨益されるところが多かつた。小論では、勉強會の私なりのまとめとして、皇位繼承の問題について私が現在考へてゐることを述べたい。

皇位繼承について

まづ私の立場を明らかにしておくが、私は皇室の永續を願ふ立場である。それを前提として、以下の意見を述べる。

皇位繼承の正統性は皇室の正統性そのものと言へるから、皇室の安定的な存續にとつてそれは守られなければならない。天皇とは祭祀を行なふ君主であるから、皇位繼承の正統性は祭祀の原理に基づくものと思はれる。祭祀にとつて最も重要なものは、神を祀る者と祀られる神との關係である。祭祀主である天皇と祀られる神との關係において女系天皇が容認されるのであれば、女系天皇になつても皇室の正統性は守られるであらう。

ただ、これまでの歴史において近くの女系より遠くの男系を選び、相當無理をしてでも男系が維持されてきたことを考へれば、男系子孫に皇位繼承の正統性があるのではないかとは常識的に推測できる。天皇の血を引く古代の有力豪族や藤原氏のやうな有力な公家の子(女系子孫)が、どれほど優秀であつても、どれほど可愛くても、皇位繼承者には遠くの男系を選んだ。これは、世俗的な權力關係や個人の能力などより、皇位繼承の正統性を優先させたものと推測される。

しかし、私は皇室の傳統や正統性は守られるべきとする立場であるけれども、男系繼承を絶對的なものと主張するつもりはない。男系繼承に正統性があるのではないかと推測はするが、男系繼承を絶對とする知識を持たないからである。その知識を持つのは當事者、すなはち天皇及び天皇に近い天皇祭祀に關はる立場の人だけである。結論を言へば、皇位繼承については當事者である天皇がお決めになられればいいと思ふ。

現在の皇位繼承の問題は、皇位繼承に政府・國民がどれだけ介入できるのかといふ問題に歸着すると思ふ。そしてそれは結局、皇室典範の位置付けの問題になる。明治憲法では天皇は神聖不可侵の主權者であり、舊皇室典範は憲法の上位に位置づけられてゐたから、このことは問題にならなかつた。しかし、現皇室典範は、敗戰後の占領下において、GHQの意向によつてGHQ製新憲法下に一般的な法律として位置付けられることになつたものである。その結果、現行法體系では政府や議會は皇位繼承をはじめとして皇室に對してほとんど無制限に口を出せる(改定できる)制度になつてゐる。これは洵に問題であつて、象徴天皇制度をとる民主主義國家として皇室に出す豫算や天皇の政治行爲についてはきちんと規定しておく必要はあるが、祭祀の内容や皇位繼承の方式といふ皇室の根本に關はる事柄についてまで國民が手を突つ込んで掻き囘していいはずがない。皇室の家の傳統は國民が民主的に決めるべき性格のものではない。現憲法下では皇室に對する國民のほとんど無制限な介入が許されてゐるが、これは改められなければならない。

男系維持論者の保守派がしばしば強硬な態度で威嚇的な物言ひをしてゐるが、皇室祭祀の當事者でもないのに何を根據にあのやうな態度を取つてゐるのか訝しく思ふ。たとへ保守派の意見が通つたとしても、政治が皇室の傳統に介入したことに變りはない。勿論、男系維持論者であれ、女系容認論者であれ、意見を言ふことは構はない。私自身、多くの女系容認論者に對して批判的である。女系天皇容認の報告を出した「皇室典範に關する有識者會議」にしても、その内容は内閣官房・内閣法制局・宮内廳などで構成する政府の非公式檢討會がすでに決定してゐたもので、論議の方向性は官僚のお膳立てした筋書きに沿つて進められたものであつたといふ。皇室典範改定を推し進めようとした小泉首相にしても、この問題についての知識や考へをどれだけ持つてゐたのか、甚だ疑はしい。女系容認論者の多くは、傳統や正統について主體的に考へてゐる人は少なく、底の淺い議論が多かつたと思ふ。皇室の傳統や正統性を守らうとする保守派が女系容認論を批判することは理解できる。しかし、皇室の傳統への政治的介入を抑止するに止めるべきである。

女系容認論の中では、私は保守派の女系容認論に關心を持つてゐた(保守派の女系容認論者にしても、學問や言論の領分で物を言ふのは構はないが、政治的に皇位繼承の方式を定めようとすべきではない)。保守派の女系容認論者の意見の中から、ここでは男系(父系)繼承は支那の影響であるといふ指摘についてだけ述べておく。國學的な女系容認論者は、我が國の古い傳統を掘り起こせば双系制であり、支那の影響による父系制に固執する必要はないとする。漢意を排するといふわけだらうが、男系繼承の方式は天皇の成立と同時に成立してゐるのであるから、皇室自體は双系制ではなかつた。皇室の歴史を超えて民族の古層を掘り起こすと言ふのならば、天皇そのものを否定するも可といふことにもなるのではないか。それに我が國の古い傳統を云々するのなら、現今の一夫一婦制を信奉する必要もなからう。今囘の勉強會の座長を務めた浦島太郎は、八木秀次によつて男系繼承の正當化に用ゐられたY染色體論に對して、そのやうな議論は科學を皇室の傳統の上に置くものだがそれでいいのかと指摘してゐるが、同樣に皇位繼承の正統性は双系制云々といふやうな人類学的知識を論據とすべきではなく、皇室の祭祀の原理に基づいて考へるべきである。

皇位繼承についても法律で決めておかなければ皇位をめぐる政治的な爭ひが起こるとか、皇室の家としての傳統に關してであつても天皇に決定權を附與するのは問題があるとかいふ聲も聞くが、憲法は天皇がその政治的地位を濫用したり政治的權力に轉じたりすることのないやうに法的に制限してゐるのであるから、そのやうな心配は不要である。憲法上の天皇とは、一言でいへば、政治に正統性を附與する權能者である。正統性を附與できると見做すことができれば、その役割は皇室・皇族のどなたが行なつてもいいものである。また、國事行爲の内容は憲法に定められてをり、天皇・皇族が自由にできる餘地はほとんどない。國事行爲そのものは天皇・皇族のどなたが行なつても大きな違ひは生じ得ない性質のものであるから、政治が皇位繼承に口を出す理由は皆無なのである。「皇室典範に關する有識者會議」が出した報告を見ると男女を問はず長子優先とあるが、これなども餘計なお世話であらう。皇室の家としての傳統は國民が民主的に決めるべき性格のものではないが、官僚や政治家、有識者と稱する人々などが恣意的に決めてよいものでもない。皇室の家としての傳統に關してまで天皇を縛らうとする現行法體系は非常識である。

政治權力が皇位繼承の方式を變更するのも、逆に皇室として女系を認めることができるのに政治權力が男系繼承を固定するのも、共に問題である。祭祀や皇位繼承など皇室の傳統については天皇がお決めになればいいのであつて、政治權力による皇室の傳統への介入や正統性の毀損は避けなければならない。

皇室について

私は皇室の永續を願ふ立場である。皇位繼承の正統性は皇室の正統性そのものと言へるから、皇室の安定的な存續にとつてそれは守られなければならない。先に私はさう述べたが、そもそも皇室の存在意義を感じない人にとつては、さうした議論自體が無意味なものであるに違ひない。最も問題となつてゐる男系女系の論議も同樣であらう。しかし、現在積極的に天皇制度を廢止すべきと考へる人も少ないのも事實である。この状態は、皇室に積極的に反對ではないけれど、皇室の存在に明確な實感を持たない人が生れてきてゐるといふことを示してゐる。さうした人々に對して積極的な尊皇になるやうに働きかける必要はないが、天皇の意義を説明することは無意味ではないと思ふ。

私は天皇が存在することによるマイナス面は少なくプラス面が多いと思ふ。日本の歴史と傳統を體現した天皇の存在は日本人の財産である。祭祀や文藝など歴史や傳統を體現する天皇を權威として戴き、政治權力を選擧で選ぶといふ聖俗二元的な秩序原理も良いものであると思ふ。國民が天皇がゐることで困つてゐる、天皇の壓制に苦しんでゐる、天皇が厭で厭でたまらないといふことであれば、民主的手續きによつて天皇制度を廢止することもできるのである。しかし、現状を見れば明らかなやうに、天皇と國民は對立關係にないから、國民に積極的に天皇を否定する理由はないはずである。天皇制度を廢止すれば、民族・國民の歴史を書き改めなければならないだらうし、文化的アイデンティティの再構築が必要になるだらう。ナショナリズムを昂揚させる必要性も出て來よう。また、象徴天皇制度を廢止したとしても皇室そのものは消滅するわけではないし、「民營化」された天皇が法に制約されることなく國民と直接結びついて、今より遙かに大きな存在になることも考へられる。天皇を利用しようといふ人々が出て來ないとも限らない。

國民に強制的に尊崇を強ひるやうなことは天皇の本質とそぐはないが、天皇の存在の大きさに鑑みて天皇の地位は憲法上に規定しておくのが賢明であるから、制度的に國民は天皇を君主(象徴)として戴かなければならないといふ法的強制を伴ふことはたしかである。しかし、制度として天皇を戴くことは内面的に尊崇を強ひることではないし、天皇を制度として維持することは壓制ではあり得ない。天皇は抑壓者ではない。天皇は少數者にも開かれた國民すべての象徴としてあるのが望ましい姿であるし、現にそのやうな存在としてある。私たちは傳統を體現した奧床しい君主を戴いてゐることの有難みを知るべきである。皇室の存在に實感を持たない人に對して天皇を民族的・文化的アイデンティティの構成要素として内面化せよとまで言ふ必要はない。しかし、日本の傳統の軸である天皇に對して敬意を拂ふことは國民として必要な態度であると考へる。

平成18年5月8日

このページの上へ


皇位繼承の將來

高坂 相

平成十八年九月六日、秋篠宮家に親王殿下が御誕生になつた。皇位繼承順位第三位でいらつしやる方である。國民の一人として、心より御祝ひと御慶びを申し上げます。

親王殿下御誕生は洵におめでたいことであるが、これによつて皇位繼承問題が解決したわけではない。皇太子殿下よりお若い皇位繼承者は秋篠宮殿下とこの度御誕生になつた親王殿下の御二人しかいらつしやらず、皇位繼承が不安定な状態は變つてゐないからである。舊宮家の皇籍復歸を認めるにせよ、現在の宮家に舊宮家から御養子を迎へるにせよ、女性天皇もしくは女系天皇を認めて女性宮家を新設するにせよ、遠からず周邊環境を整備しなければならないのは間違ひない。

周邊環境を整備しなければならないと言つたが、皇位繼承の方式そのものは皇室に決めて頂くべきである。小泉純一郎首相の私的諮問機關「皇室典範に關する有識者會議」の座長吉川弘之元東大総長は、皇室の傳統の變更を決めるに當たつて不見識にも皇室・皇族を排除しようとし、皇位繼承について皇族から意見を聞くことは憲法違反であるとすら主張した。本來、時の權力者が皇室の傳統を捩ぢ曲げようとしたり、政治的壓力をかけたりするやうなことがないやうに、細心の注意を拂ふのが「有識者」の務めのはずである。吉川をはじめとする有識者會議の人々が、どういふ意圖によつて皇室の存續を圖らうとしてゐたのか、不可解と言ふしかない。そもそも有識者會議などといふものは、法的に何ら權威を持つものではない。

皇室典範改定の問題では、陛下は大變御心を痛められてゐたと伺ふ。たとへば親王殿下御誕生の當日、日本テレビのワイドショーで皇室問題に詳しい八幡和郎が解説してゐるのを見たのだが、この度の紀子妃殿下御懷妊は、皇室典範改定問題を心配されてゐた天皇陛下が秋篠宮殿下にサジェストされた結果であると言つてゐた。陛下の御心中を拜察すれば、皇位繼承をめぐる問題は、皇統の分裂のみならず國家の分裂にもつながりかねないので、親王誕生を望まれてゐたといふことだらう。また八幡は、二、三の皇族から直接伺つた話として、今のやうな形で皇室典範を變へられてしまふことに危機感を持たれてゐるとも言つてゐた。八幡の披露した話に全面的に依據するものではないが、このやうな話を聞かされると、朝日新聞、宮内廳の羽毛田信吾長官・風岡典之次長、有識者會議のメンバー岩男壽美子などから批判を浴びた寛仁親王殿下の御發言も、批判を覺悟の上で皇族を代表して發言されたといふことであり、陛下の御心とも無縁ではなかつたのかとも思へてくる。

獨斷的に皇室典範の改定を推進してゐた小泉前首相は、親王御誕生の夜の記者會見で早くも「將來『女系』天皇を認める皇室典範の改正をすべき」といふ發言をしてゐた。小泉前首相の場合、女系天皇を認めるべきといふ結論が先にありきなのが不審であつた。女系天皇といふ選擇肢しかないといふ客觀状況は全く存在しないからである。小泉前首相をはじめとする女系天皇推進派が、なぜ常に結論先にありきであつたのか、私には理解できない。小泉前首相は首相の座から去つたが、はつきり言へるのは、この先も政治權力が皇位繼承といふ皇室の傳統について介入すべきではないといふことである。

小泉首相の後を受けて首相に就任した安倍晋三首相は、舊宮家の復活または今の宮家を継ぐといふ方向での典範改定も檢討課題になるとの考へを示した。また、安倍内閣の下村博文官房副長官は、九月三十日、女性・女系天皇を容認した「皇室典範に關する有識者會議」の報告書について「内閣が代はつたわけで、拘束される必要がない」と述べてゐる。十月十七日には、傳統的な男系繼承を尊重し、不備の多い皇室經濟法改定を目指す超黨派の議員連盟「皇室の傳統を守る國會議員の會」(假稱)が發足するといふ。會長は陛下の同窓生でもある自民黨の島村宜伸元農水相が務め、民主黨の渡部恒三、無所屬の平沼赳夫など三十人以上が設立呼びかけ人になつてゐる。この會は、男系による皇位繼承を將來に亙つて安定的に續けるための皇室典範改定案の策定や特別立法を檢討するとともに、皇位繼承儀禮や皇室祭祀などに根據法がない現状を見直す作業を行なふといふことである。小泉政權下とは大きく状況が變つたことがわかる。

政治が安定的な皇位繼承のための環境整備をすることは必要であるし、男系繼承の方向で檢討することはこれまでの皇位繼承の方式とは違ふものにはならないから、問題は少ないと言へるが、その場合でも、皇室の傳統を政治(民主主義)が決定したといふ形にはならないことが望ましい。天皇と民主主義の關係では、皇室と國民との間に矛盾や對立が生じないやうに皇室の法的な位置附けを明確にしておけばいいだけのことである。皇室の傳統まで國民が決定すべきといふ考へは誤つてゐる。これは男系論者にも言へることである。少なからぬ保守派が主張してゐるやうに絶對に男系しか認められないものなのかどうかも實際にはわからないわけであるし、男系論者の主張が通つたとしても、結果的に皇室の傳統を政治が決定するといふ形になるのは同じである。皇室の傳統に關しては、政治や國民は皇室のサポートをするといふ立場を越えるべきではない。天皇が「舊宮家を皇籍復歸させる」あるいは「現宮家に舊宮家から御養子を迎へる」ことを望んでをられるならばそれを承ればいいし、反對に天皇の御決定が女系天皇容認にあるならばそれを承ればいいのである。

皇位繼承の方式の改定には、「GHQの意向で昭和二十二年に皇籍離脱した舊宮家を皇籍復歸させる」「現宮家に舊宮家から御養子を迎へる」「女性天皇を認める」「女系天皇を認める」などいくつかの選擇肢があり得るが、どのやうな方式にするかは皇室に決めて頂き、それが國民の權利を侵害するやうなものでない限り、政府・國民は御決定をそのまま承つておいて何の問題もない。現行法制上においては法改定の手續きが必要といふことであれば、御心を汲んでうまく制度化する智慧を働かすのが政府・國民の役割であらう。また、皇位繼承に關しては、やはり時の政府が恣意的に皇室の傳統に介入できる現行法體系の根本的缺陷があり、皇室の傳統の決定權が國民にあるといふ法的不備を抱へた現皇室典範の拔本的な見直しも檢討課題である。現皇室典範の位置附けは占領軍が作つたものである。國民がそれを國民のもとに取り戻すことは必要なことであるが、その場合にも皇室の傳統を尊重する方向で正しく皇室を位置附け直すことが賢明な態度である。

附記1

國民が親しみを感じるから今上天皇との近さを皇位繼承者の條件とすべきといふ意見(言はば直系論)があるが、これは俗論である。天皇が天皇たる所以は皇祖の血統(恐らくは男系の血統)に連なつてゐることにあり、今上天皇との近さは本質的なものではないからである。今上天皇もまた皇祖の血統に連なるがゆゑに皇位を繼承されてゐるのである。皇位の正統性は常に歴史と傳統の下にある。

附記2

男系が絶えた時にはやむを得ずに女系に移行するといふ議論があるが、もし皇位繼承の正統性が男系にあるとすれば、女系に移行した時點で皇室の傳統は終はることになる。女系に移行したことによつて正統性のない天皇が誕生した場合、それは新しい天皇制度である。問題は、新しい天皇制度になつたといふだけでは濟まないことである。實は男系が絶えた時にはやむを得ずに女系に移行するといふ議論そのものが誤りであり、男系は絶えることはない。民間には男系子孫はいらつしやるからである。男系が絶えた時にはやむを得ずに女系に移行するといふ考へ方は〈附記1〉で述べた直系論に基づくものであるが、直系論は皇位繼承の正統とは言へない。時の政府が正統性のない天皇を作つてしまつた場合、民間の男系子孫が國民に支持されて正統なる皇室を樹てられる可能性もある。さうなると、それは新たな南北朝時代である。皇位繼承については、かうしたこともしつかりと考へておかなければならない。

※拙論「皇室と國民の關係について」參照

平成18年10月9日

このページの上へ

アクセスカウンタ