ブルースマンのケルト考

陳五郎


「いやあ、上品ですねえ。素晴らしい。陳五郎氏のギターが、すばらしく上品な音楽に仕上げています。」

場所は某高級フランス料理店。上機嫌でワイングラスをクルクル揺らしながら、仲介を取り持ってくださった楽器商のおやじが、私に“上品”を連発する。この日は、フランス料理店でのオーディション。ながくストリートでやってるといろんな縁ができるもので、近隣のレストランがディナータイムに生演奏をという企画をしているということで私達にお声がかかったのだ。フランス料理にアイリッシュ音楽?一瞬違和感を感じたが、よく考えてみるとアイリッシュ音楽とは即ちケルト音楽。フランス料理に欠かせない海産物や天然塩、食肉、バター等高級料理素材の一大産地ブルターニュ地方はもともとケルトの地。いまもケルトの村々は脈々と息づいている。ネクタイはともかく一応エリの付いた上着を着用しなければならないな、とか思いながらこの日のオーディションに臨んだわけである。して、その評価が冒頭の言葉。彼にとっては、最大限の賛辞であろう。白いクロスのかかったテーブルを挟んで、私は複雑な面持ちで聞いていた。

上品をエレガンス、下品をワイルドに置き換えると、私は普段いかにエレガンスを打ち消しワイルドに振舞うかを命題としている。多分、私以外の多くのブルースマンもそうであろう。ブルースマンにとって下品こそ最高の誉め言葉。上品などといわれた日には、彼はくだんの社会主義国のニュースキャスターより不機嫌になるであろう。そんな私が上品の連続口撃を受けるハメに陥ったのは、本誌奇魂第三号で大衆音楽論について言及したからに他ならない。ブルースのルーツを探求する過程でバラッドと遭遇し、これを知るには演っちゃうのが一番とストリートアイリッシュバンド“みゅーず”を結成したのが運のつき。本誌第四号「ブルースマンの幻想」で一応私なりの結論には到達したが、魔性のケルトの呪縛から未だ脱出できずにいる。本稿では私のようなブルースマンをもその深みに引きずり込んでしまうケルト音楽について考察してみたいと思う。まずは、音楽そのものの起源から。

一、音楽の起源

音楽は、人類が人間と呼べるようになったと同時に発生したと思う。文字より早く、おそらく言語とほぼ同時期に誕生したのではあるまいか。音楽の起源説には、労働起源説(カール・ビュッヒャー)、言語起源説(ジャン・ジャック・ルソー)等諸説あるが、ブルースマンという立場から、私は一応リズム起源説を唱えることにしよう。人間が共同作業をおこなうとき、作業効率を高めるためリズムを誘発してしまう。このリズムを維持するためにどうしても音楽が必要になるというのが、音楽のリズム起源説である。他にも、たとえば求愛活動を発生源とするダーウィンの進化論的起源説などおもしろい起源説は枚挙に暇がないのだが、ここでは諸説あってはっきりしないと述べるにとどめておく。

文明と共に音楽も進化し、やがて記録にも残されるようになる。そういった記録や遺跡、壁画、彫刻等から古代音楽の最も発達した文明は古代ギリシャとされている。余談であるが、私のバンド名“みゅーず”は、ギリシャ神話の音楽の女神(正確には音楽の女神たち)の呼称。ミュージックの語源でもある。ついでに、コーラスの語源はギリシャ語のコロス(歌い踊る人)、コロスのステージがオルケストラでオーケストラの語源。コロスの楽屋がコロシアム。映画グラディエーターにあるような殺しあうが語源ではありません、念のため。これら語源群が示すとおり古代から中世にかけての音楽の源泉はギリシャにあるというのが通説となっている。今回の陳五郎の挑戦はここから始まる。

二、「木」の文化と「石」の文化

人類史上最初に音楽理論を説いたのは、かの大数学者ピタゴラスである。前五二〇年頃、弦の長さと音程の変化を理論化し文献に残している。俗にピタゴラス音階と呼ばれるオクターブの概念は、三平方の定理と遜色のないほど後の音楽の発展に貢献したが、こっちのピタゴラス理論のほうは、あまりに一般化してしまい今となっては常識と同化してしまった。このピタゴラスの生きた時代が古代ギリシャの黄金期と呼ばれている。そして、ケルト人が文献上歴史にはじめて登場する時代でもある。ケルト人に関して最も古い著述を残した人、即ち初めてケルトという言葉を書き記した人はヘカタイオスという学者で、地球は楕円の平板でその果ては滝になっていると説いたあの人だ。歴史学的にはラ・テーヌ文化と称される高度鉄器文化の時代のことであるが、実はこれ以前、ハシュタット期と呼ばれる初期鉄器文化が前八〇〇年頃までにはケルト人によって打ち立てられていたらしい。らしいとは、要するに史料としての文献がないということで、ケルト文化は文字をもたない文化であった。そして、ケルトの民は国家を持たない民族であった。ヨーロッパのほぼ全域を支配し、ギリシャ、ローマをも震撼させるほどの強大な文明を築きながら、史書にほとんど登場する事がないのはこのためである。数少ない古代ケルトに関する記述は、すべてギリシャ人とローマ人によるものなのだ。十八、九世紀になるまでケルト人によってケルトの歴史が記述されることはなかった。古代ギリシャ、ローマ後のケルト史は、キリスト教徒によって作成されたものである。あまりにも広大な地理的要素と、異教徒による偏見と願望のこもった記録に基づいての史料が、ケルト史の輪郭を曖昧にしケルトの真実性を究明しにくくしている。

信憑性に不安を残す以上史学書にケルトについての記載がなされないのは自然なことかもしれない。が、このことが歴史からケルトを抹殺してしまう要因のひとつとも考えられている。朽ちた文明、あるいは腐食する文明。研究者は、故にケルト文化を「木」の文化と定義づけようとする。石造りの巨大な建築物や、神々や人物像等さまざまなものを現在に残すギリシャ、ローマを「石」の文化と位置づけ、これと対比させるようにして。最初この説にであった時はなるほど巧く言い表すなと感心したが、だんだん「木の文化ケルト」という表現が的はずれなもののように感じられてきた。いまや定説となったこのたとえが、果たして言いえて妙なのかどうか。

三、通説、ケルト史概要

繰り返しになって恐縮であるが、ケルト人の起源は紀元前八世紀、青銅器時代にまでさかのぼるとされている。紀元前五世紀頃まで現在のオーストリアのハルシュタット付近を中心に、ローマ人の起源とされるエトルリアと接触し、たがいに影響しあっていたようだ。やがて、ラ・テーヌ(現スイス)に拠点を移し独自の文化、社会を繁栄させる。紀元前三世紀には活動範囲は最大に達し、ギリシャ、ローマの支配下にあった地中海地方を含まないヨーロッパ全土におよぶようになる。これほど広大な文化圏を築きながらローマもギリシャも、ケルトの芸術、文化は評価しなかった。学問、芸術においてはギリシャ、政治、軍事においてはローマが至高と決めつけていた。彼等はギリシャの均整美を最高の芸術とみなし、ケルト的な美や芸術をまったく稚拙なものと扱い認めようとしなかった。ケルトをさして呼ぶギリシャ語のバルバロイ(野蛮人)が、彼らの価値観を露骨に示すものであろう。そしてこの価値観は近代にいたるまで続くのである。

いっぽう、一部のケルト人側からはギリシャ、ローマに対して幾度かの接触を試みている。他方あるものたちはイベリア半島に定住し、あるものたちはブリテン諸島に渡り、またあるものたちは現在のトルコあたりに移住し、ガラテヤ人と呼ばれた。

やがて軍事、政治に長けたローマがしだいに膨張し、周辺地域を侵略占領しはじめ、属州としてその支配下におくようになる。カエサル(シーザー)によって征服されたガリア(フランス)のケルト人たちはブリタニア(イギリス)に落ち延び、さらにブリタニアにもローマが侵攻してくると、スコットランドやアイルランドに押しやられていった。

こうして、かつては広大な領域に存在したケルト人が歴史にたいした痕跡を残すことなく消え去ってしまう。紀元四世紀、聖パトリックによるキリスト教布教がアイルランドにまで及ぶに至ってのことである。今日、ケルトの文化は、アイルランド、ウエールズ、スコットランド、コーンウォールというブリテン諸島の西部地方とフランスのブルターニュにかろうじて生き残っているとされている。

はしょってしまったが、以上がケルト史概要である。つぎに、西洋音楽史についても若干触れておこう。

四、西洋音楽史概要

音楽の起源については前述したが、西洋音楽において古代音楽とは紀元五世紀頃までのギリシャ、ローマの音楽文化であり、後の西洋音楽文化に思想面で大きな影響を与えたとされている。この時代、音楽は舞踊や詠詩、演劇から天文学にいたるまでかなり広義な意味あいで使われていた。起源の項では触れなかったが、古代音楽の音楽的特徴は音階の最小単位が現行のオクターブ音階でなく完全四度というところにあり、半音の半音という音程も使用されていた。現在でもインド音楽がシタールという楽器を用いてこの音をよく使う。私見であるが、ブルースギターにおけるブルーノートの真髄はこの音で、これを使う瞬間ピアノに目をやり「ザマミロ」という顔をしてやる。絶対にピアノで出せない音なのだ。このような微細な音程が用いられていた背景には言葉と音楽が融合一体化していたことが見てとれるが、音楽技法において今日の西洋音楽に継承されることはほとんどなかった。なぜなら、ピアノに出せない音だから。

一般に、音楽史は中世期から語られることが多い。中世音楽とは五世紀初頭のゲルマン民族の西ローマ侵攻から、十四世紀のグレゴリオ聖歌時代までの音楽をさして言う。中世音楽期で最も重要なのがローマ・カトリック教会で歌われてきたグレゴリオ聖歌と呼ばれる聖歌で、グレゴリオという名称は当時カトリック教会の独立を果たした教皇グレゴリウス一世の名前に由来する。グレゴリオ聖歌を西洋音楽の起源とする書物も多い。グレゴリオ聖歌は単旋律無伴奏で歌われ、トロープスやセクエンツィアなど多くの聖歌を派生させた。四線記譜法のネウマという記譜法だそうで、小節を区切る縦線のないのが面白い。十二世紀頃には西洋音楽にアラビア文化が流入し、バイオリンなどの楽器が取り入れられるようになった。

この頃に、世俗音楽が胎動を始める。十一世紀末から十四世紀初めにかけてのヨーロッパには、トルバドゥール(南フランス)、トルヴェール(北フランス)、ミンネゼンガー(ドイツ)といった騎士階級の歌人が輩出した。いわゆる吟遊詩人と呼ばれる彼らの活動の舞台は主に宮廷で、これまで教会の中で育てられてきた音楽とは異質の、民衆の庶民的日常における生活感情や男女の恋愛を題材とする歌を歌った。彼らの音楽がアルス・ノヴァ(新芸術)に影響を与え、ルネッサンス音楽の礎となる。アルス・ノヴァとは十四世紀に誕生した音楽様式のことで、教会の厳格な慣行から脱し、より人間味、叙情性を加えようという運動のことである。バラッド、マドリガルなどあたらしい音楽形態も生まれた。形式的には、三度、六度の音程を承認し、平行五度、平行八度を禁止したものであるが音楽理論については、あらためて別の場で詳しく述べたい。

中世期以降の音楽史は、他の文化史一般とたいして違いはないように思う。十五世紀にはいよいよルネッサンス期を迎える。一般にルネッサンス音楽時代は十六世紀前半を境に前半と後半に分けられるが、前半は主としてフランドル学派の音楽家達が主流であった。この中で特に、デュファイという人が後の後期ルネッサンスにも大きく影響を与えた独自の旋法を使用している。またルネッサンス期の前半の終わり頃になると印刷技術の進歩にともない楽譜の印刷手法が確立し、その後の作曲家の作曲活動に大きな変化をもたらした。ルネサンス音楽時代後半は、フランドル学派以外の活躍が目立つようになる。例えばイタリアのマドリガーレ、ドイツのコラールなど多様な音楽形態が見てとれるようになる。

ルネッサンス音楽時代で忘れてはならない重要な事件は、ルターによる宗教改革である。宗教改革はローマ教皇庁をはじめとする諸教会の腐敗を糾弾することから興った運動で、プロテスタント教会がこれにより誕生した。いっぽうカトリック教会側も、一五四七年から一五六三年にかけてカトリック教会内部からの突き上げを受け、トレント公会議を開きこれに対抗する。トレント公会議の結果、教会音楽にはいりこんでいだ世俗音楽は反キリスト教的という理由で禁止される。またプロテスタント教会のルターは、宗教改革にあわせてミサ曲の大改革にも着手した。これら両面から、教会音楽に取り入れられていた世俗音楽は一掃される事となる。ちなみに、日本に西洋音楽が伝えられたのは聖フランシスコ・ザビエルが来日した一五四九年。応仁の乱が終わり、安土桃山文化が開花する前夜のこと。

この後、十七、八世紀に音楽はバロック時代を迎える。かの大バッハを輩出した時代である。これ以降の音楽史については、文献、書籍も多く私より読者のほうが詳しかろうと思うので割愛させていただく。

五、ご都合のケルト史

印刷術が進歩し音楽理論の整備も進み大作曲家を次々と輩出する一方、遺跡研究が活動的に行われるようになると、次第にケルトに関する著述やケルト音楽の記譜がなされはじめる。ケルト史的には、ケルトの復興期と呼ばれている。確かにこの頃になってようやくケルトが歴史に鮮明にその姿をあらわすのであるが、果たして古代にいったん滅亡したケルトが十八、九世紀になって突如として復興するものであろうか。日本史でたとえるなら、明治時代に突然縄文人が現れるようなものである。そのような事があろうはずもなかろう。ケルト文化は、綿々と彼らの中で伝承されつづけてきたのである。そして重要なことは、ケルト文化はヨーロッパ文化と密接に関わり、影響しあってきたに違いないということである。ものの本には、ケルト復興後キリスト教音楽の影響を受けケルト音楽が発達したように記されているが、おそらく真実はその逆であろう。たとえば、アルス・ノヴァやデュファイの旋法に見られる三度、六度の汎用等はケルトの音楽が基になっているに違いない。また、フランス北部の吟遊楽人トルヴェールが広めたとされるバラッドという言葉は古代ケルトの伝承をつかさどる吟唱詩人バード(barde)によく似ている。わずかばかりの考察力を持ち合わせていれば、教会音楽はともかく世俗音楽に関してはケルトがベースにあるのは自明の理であるはずなのに。意識的に排除されているとしか思えない。

ケルトは、滅んだのではない。抹消されたのだ。ローマ、ギリシャの蛮人としての偏見。キリスト教社会による異教徒としての偏見。これにより彼らにとっての「ご都合のケルト史」が捏造されたのである。文字を持たぬ民ケルト。口伝承の民ケルト。これをよいことに、ギリシャ、ローマ以降のヨーロッパの支配者たちは、意図的に中世期におけるケルトの存在と、その文化に与えた影響を抹殺してしまったのだ。「石」の文化、「木」の文化、などいういかにもごもっともな表現も、「ご都合のケルト史」捏造のための手段のひとつと言いきってしまうのは少し乱暴であろうか。

六、「種」の文化

毎度、毎度、おなじ弁解をするが、私の書く文章はいわゆる耳学問をその論拠としている(いかにもケルト的だなあ)。ストリートブルースマンの感性による従来説への無責任な放言と受けとっていただきたい。細部にわたっての考証に大なり小なり穴もあろうが、一応私なりの結論に移りたいと思う。そのまえに、もう少しケルトの素顔を紹介しておこう。

ケルト人は、東は今のチェコやルーマニア、トルコのあたりから西はスペイン、アイルランドにいたる広大な地域に住み、山ひとつ、河ひとつ越えれば同じ言葉を話す仲間がいると知ってはいても、国家を形成するということはなかった。これは、自然の中に神々を見出し、輪廻転生を信じる彼らにとって個の存在が最重視すべきものであって、政治的社会構造に対しては全く関心を示さなかった結果である。とはいえ家族単位以上の生活をしていく上で、何らかまとまりを形づくるものは必要であり、部族(トライブ、tribe)という単位で集団を形成し生活を営んでゆく。ケルト人社会は、僧侶階級(ドルイド、druid)、騎士階級、平民、奴隷からなる階層社会で成り立つが、こういった階層社会形成はインドのカースト制度を連想させるものであり、インダス河の文明とのかかわりが何となく見てとれる。

ケルト社会の支配層であり指導者でもあるドルイド僧は、いわゆるエリート階級であり、税や兵役の免除といった特権が与えられていた。文学や詩だけでなく神学や倫理、法律、天文学にも長けており、神官、法曹家そして詩人であると同時に、現世の人々と神々や妖精との間を取り持つshaman的役割も担っていた。「樫の賢者」とも訳されるdruidという言葉の由来は、dru(樫、ケルトにおける神木)とwid(知る)からなる古代ケルト語で、「樫を知る者」の意味を有する。湖や河川、岩石や巨木など自然を神聖視するケルト人にとって、樫の木を知る者がもっとも神に近づける存在であるとされていた。

また、彼らの生活、生産形態もかなり高度であったとみうけられる。山岳地や小高い丘など自然の地形を活かした要塞(オッピドゥム)を造り、そこに部族を住まわせ聖域、職人街、住宅地、集会所などそれぞれ個別の街区を設け貨幣を流通させる都市的な生活が営まれていた。こうしたケルトの都市はヨーロッパ全域に点在する。

生産面においては、彼等は農業はもちろん牧畜もしており、また現オーストリアあたりでは岩石を採掘してはそれをバルト海沿岸で産出する琥珀や地中海産のワインと交換したりして、ギリシャ人やローマ人、エトルリア人を相手にさかんに交易をおこなっていた。

ギリシャ、ローマ人をして野蛮と言わしめた彼らの思想、宗教観、生活習慣や日常生活はどのようなものであったろう。ケルトの男たち。死をも恐れない勇敢な戦士として有名な彼らであるが、それは輪廻転生を信じ、死が全ての終わりでないという思想が故の行動によるものである。よって彼等は戦死を恐れず、戦いに敗れたときには自決さえ進んで求めたのである。また、婚姻システムも整理されており、男は結婚すると妻が持参金として持ってきたお金にそれ相当の自分の財産を合わせて共有財産とした。これを元金として口座を設け、利子を貯蓄にまわし配偶者に先立たれた方が残りの財産と貯蓄した利子収入を受け取るのである。これが蛮人?少なくとも現代日本の若者より堅実で計画的ではある。ケルト人の葬儀は火葬で、なおかつ盛大で派手にとりおこなわれていたらしい。故人が生前に愛していたと思われるものはすべて火に入れられた。ついさきほどまで共にいたペットや奴隷、親しくしていた被護民たちをも一緒に焼いた。このあたりが蛮人と畏怖される所以か。

ケルト社会は宗教的指導者としての「ドルイド」と呼ばれる聖職者を頂点とすることは前述した。もう少しこの「樫の木の賢者」について触れよう。彼らは樫の木の宿り木を神の化身と考えてこれらを集め、特別な祭礼儀式をとりおこなっていた。エリートたるドルイドは、神々の祭祀を司るのみでなくあらゆる学問に秀で、裁判官や部族同士の外交官的役割も兼ねていた。祭司としての学問や民族伝承をすべて暗誦するためにはおよそ二十年の歳月を要したという。これはその時代の人々の半生を超えるものであったろう。彼らはいま学んでいる詩を文字で書き記すことを許されなかった。理由は、ドルイドの教義が一般大衆に知れ渡るのを防ぐためというのと、弟子たちが文字に頼って記憶力を疎かにするのを防ぐためであると考えられている。こうして、ケルトは口承伝承の文化を発達させていったのだ。

異教徒たちは、ケルトの文化を「樫の木」に絡めて「木」の文化と評した。野蛮な「木」の文化はやがて枯れ果て跡形もなくなったと言う。「石」は残り、「木」は朽ちる。こんな論理でケルトは、キリスト教徒によって作られた西洋史から意図的に抹殺される。だが、ケルトの文化はドルイドたちによって永々受け継がれてきたのである。樫の木は枯れても、その種は世界中に散らばり表の西洋史の陰に脈々と生き続けているのである。私は、ケルト文化を「種」の文化と名づけて結論とする。

七、ケルトによって蒔かれた「種」

先般本邦で開催されたサッカーワールドカップでは、アイルランド代表チームの活躍から、世界中のケルトの民が我が国に集結した。このことはまだ記憶に新しい。いまや全世界に蒔かれたケルトの種は着実に根付いている。JFK、レノン・アンド・マッカートニー、ハンバーガーチェーン・マクドナルド。解釈によっては、ある意味で世界の支配者となった、ケルトを標榜しないケルト人たちである。

種という小さなかたちに姿を変えているので、なかなか気づきにくい。我が国でいえばたとえば卒業式。必ずといっていいほど歌われる「蛍の光」は、ケルト音楽である。原曲は、「オールド・ラング・サイン」というスコットランドの歌。永く口伝されてきたものに十八世紀ロバート・バーンズというスコットランドの国民的詩人が歌詞をつけ、ジョージ・トムソンという歌曲収集家によって記譜されたものである。今回、バッハ以降の音楽については触れなかったが、ハイドン、ベートーベンはトムソンの影響を強くうけている。ご都合のケルト史たる願望としての西洋史には記述されていないのが残念であるが。また、「オールド・ラング・サイン」は一時期韓国の国歌でもあった。一八九六年、韓国の独立を象徴する「独立門」建設のとき「愛国歌」として作られたこの曲は、日本による植民地時代後の韓国臨時政府により国歌として制定された。モルジブ共和国の前国歌も「蛍の光」(ガオミィ・サラーム)で、現在の国歌はイクマという日本人によって随分アレンジされてしまった。しかし「オールド・ラング・サイン」の原型は消し去られてはいない。

そして、先ごろ法制化され卒業式で歌うことが義務づけられた国家「君が代」も……。

『奇魂』第六號掲載

hr

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