ストリートブルースマンの読書感想文

陳五郎


ノーマンジェイスン監督のミュージカル映画『屋根の上のヴァイオリン弾き』という映画の題名は、『駅馬車』に匹敵する名邦題と思う。原題は「フィドラー・オン・ザ・ルーフ」で、直訳すると「屋根の上のフィドル弾き」となろうが、上映当時即ち一九七一年頃の本邦では、この楽器がフィドルと呼ばれることは一般的にほとんど知られてなかった。でフィドルをヴァイオリンに置き換えたのであろうが、「ヴァイオリニスト」とせず「ヴァイオリン弾き」としたのが見事である。おそらくこの邦題を考えた人はフィドルという楽器とヨーロッパの大衆音楽に習熟されていたのであろう。ヴァイオリニストが屋根の上で演奏し得ないことをよくご存知だ。翌年同監督は『ジーザス・クライスト・スーパースター』を製作するが、この映画が入ってきたときには邦題担当者は人事異動になっていたのかな。

縁あって本誌にブルース論を展開させていただいているが、その過程でケルト音楽と出逢い、時おりケルト音楽プレーヤーとして活動している。形態はギターとフィドルのデュオである。ブルースギターとジプシーフィドラーのコンビが伝統あるケルトを標榜するのは少しおこがましいのだが、路上やライブハウスでの評判はすこぶる良い。少し前の『リバーダンス』『タイタニック』、最近の『ハリーッポッター』と『ロード・オブ・ザ・リング』。これら映画のヒットが追い風になっているようだ。特にストリートでの反応は驚くべきもので、他のストリートミュージシャンたちの羨望の的となっている。ただ困っているのは、質問を受けたときの応対の仕様で、ゲール語の曲のタイトルすら読めない私達にまともな受け答えができようはずもない。的外れのリクエストと矢つぎばや質問が、われわれの頭痛の種である。

そんな折、本書は私達にとって格好の福音書となった。

「フィドル?バイオリンと違うんですか?フィドルとバイオリンの違いは?」

「……」

こんなやり取りに、著者は明快な解答を用意してくれている。

「素面で弾くのがヴァイオリン。酔っ払って弾いて一向に構わないのがフィドル」

あるいは、アリとキリギリスの童話を引き合いに、

「暑い夏のあいだ懸命に働くアリ。彼らをせせら笑うキリギリス。この場面を描く挿絵に、必ずヴァイオリンが描かれているがこの楽器がフィドルです」

と言う風にも述べている。

本書での著者は、楽器の貴婦人と称されるヴァイオリンに対して卑俗とされてきたフィドルを「正統」文化に対する「底流」文化の担い手と位置づけ、堂々とスネておられる。日常、エリート集団の中でアップアップとどうにか生息しているストリートブルースマンの私にとって、非常に勇気づけられる論旨である。

フィドルという楽器の構造、歴史的変遷から、アイリッシュ、スコティッシュに代表されるブリテン諸島の音楽、東欧フィドルとジプシー音楽、さらにユダヤ音楽とのかかわり。そして移民と共にアメリカへ渡ったフィドルがどのように彼らの文化に浸透していったか・・・。私がブルースを通じて表現しようとしている下衆文化のすばらしさを、フィドルというマテリアルを通じて教授してくれる一冊である。

また著者は、フィドルの新たな可能性としてエレクトリック・ヴァイオリンを紹介している。私のジャンルのギターでもそうだが、エレクトリック楽器の持つ奥深さを理解し評価する著述は少ない(打ち込みと称されるコンピュータミュージックのことではありません)。おそらくエレクトリック・ヴァイオリンについて肯定的に書かれた唯一の著作であろう。一九七〇年代、マイルス・デイビスやボブ・ディランが電気楽器を取り入れたときには、世界中ですさまじいバッシングが巻き起こった。このときのマイルスの言葉が今も胸に焼き付いている。

「エレクトリックは、心が熱くないと演奏できない」

※茂木健『フィドルの本〜あるいは縁の下のヴァイオリン弾き』音楽の友社、一九九八年十月三十日刊

『奇魂』第五號掲載

hr

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