ケルト音楽について

1 アイリッシュ音楽とは

いまだ、「アイリッシュ音楽って何ですか?」という質問をよく受ける。

「アイルランドの伝統音楽です。音楽の父がバッハなら、そのバッハのひいジイさんってとこですかね。」

テキトーに答えていると、見かねてフィドルの大城がフォローする。

「映画『タイタニック』で、主人公ジャックが、『本物のパーティーに連れて行ってあげよう』と、上層階級の娘ローズを、地下船室に連れて行ったときの場面で演奏されていた音楽です。」

いまのところ、この説明が最も理解してもらいやすいようだ。

「ただ、私たちはアイリッシュを標榜していますが、スコットランドやウエールズ、フランスやスペイン、はたまたアメリカやカナダの曲も演ります。一般には、ケルト音楽と呼ばれます。」

とまあ、このあたりまでの解説でご容赦いただいている。

では、ケルト音楽とは一体何なんだろう。

説明するためには、ケルトとは何かから始めねばならない。

2 ケルトとは

(1)ケルトの起源

「ケルト」とは、紀元前1200年頃、東部ドナウ川流域周辺を中心に広くヨーロッパ全域に存在したとされる民族文化のことである。古代ヨーロッパにおいて青銅器時代も終わりを告げようとする頃、すでにケルト人は鉄器を使用していたという。「ケルト人」とは、古代ギリシア人が、西方ヨーロッパにいる異民族を「ケルトイ」と呼んだ事から由来する名称で、これは共通の言語ケルト語を話し、共通の宗教文化を所有する文化集団を指す言葉で、人種のことをいうのではない。ローマ人は、彼らのことを「ガリィ(ガリア)」と呼んだ。

ケルトの起源は、紀元前6000年頃と考えられる。ケルトという統一的文化集団が、いかにして出現したかは紀元前6000年から紀元前50年頃にかけてのヨーロッパにおける考古学的考察にゆだねよう。さまざまな出土品から当時の人々の生活をあれこれ空想することこそ、歴史のロマンの醍醐味といえる。

(2)ケルト文化の起源

ケルト文化の起源としては紀元前800年頃、オーストリア北部からバイエルン地方を中心に発展したハシュタット文化(第一期ケルト文明)にまでさかのぼる。さらに紀元前500年頃始まったラ・テーヌ文明(第二期ケルト文明)では、ケルト人は独特の美術装飾品を生み出し残している。この文化はケルト人の勢力が衰え、キリスト教文化がとって代わる後世までつづく。やがて彼らは、東はトルコやバルカン半島から西はイベリア半島やブリテン島(アイルランドも含む)までの広い範囲で活動するようになり、絶頂期にはアルプスを越えて南下し、ローマやギリシャにまで勢力を拡大する。つまりローマ帝国出現以前のヨーロッパ世界において、地中海と北海の沿岸地域を除くほとんど全域をその覇権をのもとに収めていた民族である。

しかしこれだけ勢力を拡大しながら、ケルト人はローマ帝国のような統一国家を形成する事はなかった。

(3)大陸のケルトと島のケルト

そのケルトの繁栄も紀元前600年から300年頃までのことであり、やがて衰退する。多数の部族から成り立ち、同じ言語文化を持ちながら、国家という概念を持たず、ひとつの政治形態を形成して統治するということがなく、部族同士の争いをくり返すうち、ある者たちは北の島に流れ、ある者たちはローマとゲルマン世界のなかに埋没してしまうのである。

ラ・テーヌ期にブリテン島やアイルランドに流れたケルト諸族は、大陸のケルトとは異なった文化を保持し、島のケルトと呼べる特色を見せる。

ローマは前58年にガリアに進攻し、ほどなくガリアはローマ化する。ローマはその後ブリテン島も侵略するが、アイルランドに限ってはカエサル進攻もなく、ヴァイキングの襲来はあっても12世紀終わり頃までは外敵の大きな影響も受けず、ケルト文化を色濃く残すこととなる。

ケルト文化のひとつの大きな特徴は、文字をもたぬ文化であったいうことである。即ち、ケルト文化は、口伝承によって後世にまで受け継がれたのである。

3 再びアイリッシュ音楽

前述のように、島のケルトは長く異文化から独立し、独自の文化を口伝によって残しつづけた。これが、わたしたち“みゅーず”のアイリッシュ音楽の原点である。

(陳五郎)

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